オトバンク上田様より献本御礼。
うっとり。
もうマタタビをかまされた猫状態。
だって、あの松丸本舗が、手元にあるんですよ。
いや、もちろん本書は「松丸本舗」の本であって松丸本舗じゃない。
でもそれを言ったら「○×」の本は○×じゃない。
しかし読み手は、それを読む事によって「」をはずす。
そして○×は読み手の世界の一部となり、読み手の世界はそれ以前の世界に戻ることはない。
そうして読み手は、おもかげを残したままでうつろい行く。「全体は部分の総和より大きい」という言葉があるが、「部分の総和」がおもかげで、うつろいとはそれと全体との差のことなのだろうか。
実は本そのものは、うつろわない。
〆られた魚が泳がないように。
しかしその「いぶかない」物は、「いぶく」者のいぶきにとって欠かせないものなのだ。
木というのは、表面だけが生きていて残りのほとんどは死んでいる。サンゴ礁もそうだ。しかしその死んだ部分を取り除いたら、残りはもう生きていけない。読み手という者にとっての本という物には、そんなところがある。
そんな息吹きを、松丸本舗ほど強く感じられるところは他にない。少なくとも、私は知らない。
しつこいようだが、本書は「松丸本舗」の本であって、松丸本舗ではない。
しかし本書の読み手となったあなたにとって、本書はあなたという木に欠かせない木部となるだろう。
そのものは死んでいるのに、生きているものにとって欠かせない一部となる。実はこのことこそ、紙の本と電子書籍の最大の違いである。電子書籍は「死んでいない」、少なくとも「〆られていない」。それこそが、電子書籍に対する最大の違和感なのではないだろうか。
死体であれば、それに何かをすればその後が残る。かみつけば歯形が残るし、落書きすればその書き込みが残る。そしていちどつけられた傷跡は、二度ともとには戻らない。電子書籍には前者の真似はできても後者がない。インストールしなおしてしまえば、それまでについた「傷」はきれいに失せてしまう。
それがいいとかわるいとかという話ではない。違うつきあい方が必要だということだ。著者もまた、そのつきあい方を模索中である。その模索の一部は本書でも「電子図書街」という記事でうかがうことができるし、そして本書自身電子書籍版が上梓される予定である。こちらも入手し次第、あらためて紹介する予定だ。
それにしてもこの「居心地のよさ」はいったいなんなのだろう。
今はそれについて考えるより、この居心地のよさを堪能していたい。
自然という数字で書かれた書物の中の、確率で記された猫のように。
Dan the Bookworm
でも40過ぎててまだ松岡正剛をえらいなんて思っている、というのは、アカデミックな批判能力が欠如していると思われます。そう思われても仕方ありません。松岡正剛は、まとまりの欠けた物知りで、知識の量で自分より無知な人間たちと勝負しているだけとしか思えません。
final先生のほうがDan氏より1枚も2枚も深いところを見据えていると思うのは、Dan氏から松岡正剛の話題が出てくるときです。