著者より献本御礼。

正直、闘病記の類いに感動するには、私はあまりに多くの本を読んで来た。

そして患者たちに同情するには、あまりに統計を知りすぎている。

人は一人の例外なく、必ず死ぬという意味で生まれた時から不治の病の患者だとすら達観している。

しかし、本書を読了してからは、はっきりこう感じる。「白血病だけはご勘弁」。

本書の価値が、そこにある。

「やっぱり健康が一番」と思わせる闘病記と出会うのは、白血病に罹るより稀かも知れないのだから。

本書「無菌室ふたりぽっち」は、白血病の闘病記。著者は急性骨髄性白血病にかかり、一度は寛解したものの再発し、弟の骨髄移植を経て今に至っている。まだ「これで大丈夫」だと医学的に言うには、もう三年この状態が続かなければならない。

著者は、この経過にうんざりしている。そして本書を「いやいや」書いている。

数多の闘病記に欠けているのは、このいやいや感だ。

実際、致死性の病というのは、「ただの悲劇」ではない。むしろ英雄譚の母ですらある。

プロですら、こう言ってしまう程。

4 白血病の発生率
かつては、洋の東西を問わず、メロドラマや悲劇の若きヒロイン達は結核に罹って死んでいったものですが、昨今は結核の代わりに白血病が広く用いられています。また、実話を題材にした小説や映画などにも白血病が良く登場するのは、若者が罹るがんの中で最も頻度が高いという理由があるからです。

この「悲劇を通した英雄譚」というのは、戦記物にも通じるところがあると思う。方や人の病。方や人々の病。なぜ人はこれほど「病気の話」が好きなのかというぐらい、フィクションノンフィクションを問わず世には闘病記が溢れている。勝利すれば「この艱難辛苦を乗り越えて」、敗北すれば「彼/女は短い人生を精一杯行きました」…人々が苦痛と苦難を乗り越える、あるいはそうしようとする話に、我々は動かさざる(moved)を得ない。目の前のカレーに手を伸ばさずにはいられないが如く。

セカチューから"Stay Hungy, Stay Foolish"まで、世にはこうした感動が溢れているし、私だって実はそういう話は実は嫌いじゃない。ただ食傷しているだけだ。こうまで多いとまるで乗り越えるべき苦痛がない方が悲劇であり不運であるかと思い込んでしまいそうになるぐらい。

自分が闘病記を書いたとしても、そういうお話にしてしまう自覚もある。

しかしだとしたら、その苦痛を取り除くための努力というのは堕落なのだろうか?日本の文化というのはそれを暗示しているところが結構ある。たとえば無痛分娩は、なぜ21世紀の今になってもこれほど普及していないのか。私の娘達も実は普通分娩で生まれている。"No pain, no gain"という諺は英語にもあるけれど、それの意味するところはgainとはpainの代価でなければならないということなのか?

私は、それは人類が霊長を名乗る以上間違っていると思う。"the least pain for the most gain"を目指すのが、文明人のたしなみというものではないのか?

そのたしなみに対する「躾」は、逆説的ではあるが、painをきちんと伝えることだと思う。それが「殺された方がまし」だというほどの痛みであれば、いやでも苦痛最小を目指すようになる。そして白血病というのは、まさにこの「殺された方がまし」というほどの痛みを治療過程で伴わずにいられない疾病なのである。たとえば、こんな具合に。

P. 126
 キロサイド大量療法が始まった。
 点滴による3時間のキロサイド投与を1日2回。これを一日おきに3回行う。多量の抗がん剤を体内に入れるため、治療中のケアは慎重に行われる。薬の投与中は、目や口からしみ出してくる抗がん剤を洗い流すための洗眼と、口腔洗浄のためのうがいを10分おきに行わなければならない。これを怠ると一時的に目が見えなくなったり、口の粘膜がダメージを受け口内炎ができてしまう。抗がん剤の不快感に耐えながら、1日のうち6時間は10分おきに洗眼とうがいをし続けなければならない。ベッドと洗面台を往復するのがしんどいので、砂時計とにらめっこしながら洗面台の前にへばりついた。

しかもこの時の抗がん剤治療は、全く効果がなかったのである。

白血病の闘病とは、こうしたことの繰り返しであるようだ。半殺しどころかほとんど全殺し。本人よりガンの方がほんのわずか先にくたばることを願いつつ、治療というなの拷問に日夜耐え続ける…

著者が受けた治療は、日本で考えられるベストの治療であることは、本書を読み進めればわかる。それでこれほど痛いなら、「一般的な」治療はいかほどのものか…

とはいえ、我々は読み物ですら「純粋な痛み」など願い下げな生き物でもある。そして本は読み物であると同時に売り物でもある。感動すら得られない闘病記なんてそれこそ医者ぐらいしか読まないのではないか?

本書は、もう一人の患者を登場させることで、この白血病治療にも似たジレンマに挑む。著者より10年若い「エンドーくん」だ。こちらの物語はずっと「よくある」闘病記に近い。早くに父を亡くし、苦学してカメラマンとなり、生涯の伴侶となるべきひとも得て、人生がまさにはじまったその時に発病し、そして逝去。全米はまだしも、「全読者が泣いた」ぐらいならいけそうな物語である。

しかし、本来読まれるべき闘病記というのは、感動の物語であってはならないのだ。それではまるで戦争の悲劇を描いた作品が戦争を賛美するために引き出されるような本末転倒ではないか。そんなところで感動していては、「それを避けるためにどうしたらいいか」なんて考える余地が心に残らないではないか。

その意味で、本書は本来の闘病記の役割をいやいやと、しかしきちんと果たしている。

ビョウキハ、イタイ。

ハナシノタネニスルニハ、アマリニモ。

Dan the Man in Decent Shape