双方とも出版社より献本御礼。
一見関係なさそうなこの二冊を、一つの感情がつなげている。
嫉妬、だ。
「和解する脳」は、「単純な脳、複雑な「私」」の池谷と、「和解させたい」弁護士鈴木の対談、そして「ゼロから学ぶ経済政策」は「オーソドックスな」経済学者による経済政策解説。後者に関しては、いかに同書がオーソドックスであるかをこう強調している。
オーソドックスありきのオルタナティブ - 『ゼロから学ぶ経済政策??日本を幸福にする経済政策の作り方』(角川Oneテーマ21)発売によせて - SYNODOS JOURNAL(シノドス・ジャーナル) - 朝日新聞社(WEBRONZA)わたしがこれまで書いてきた本と同様に、本書で解説されるのは、手垢にまみれ、使い古されたオーソドックスな経済学の知見です。前著『世界一シンプルな経 済入門??経済は損得で理解しろ』に対する小飼弾氏の書評(404 Blog Not Found(2010/3/13): ペア書評 - 行動経済学/経済は損得で理解しろ!http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51416905.html)で指摘される通り、毎度ながらわたしの著作は「古典的な経済学の枠組み」から逸脱しません。そして、今回もあまり「破」も「離」もしませんでした。なぜならば、ここにこそわたしがメディアのなかで知ってほしいことが集約されているからです。
にも関わらず、いやだからこそ、オーソドックスな経済学が見落としていた、いやシカトしていたある感情に、このような配慮をしている。
「ゼロから学ぶ経済政策」P.176経済理論では「エンビー・フリー(Envy-Free)の原則」、つまり人々の間に嫉妬が起こらないという過程の下で、さまざまな理論や政策構想が行われています。しかし、このエンビー・フリーの原則ほど、現実に当てはまらない条件もないかもしれません。自分の経済水準が変わらないのに、誰か別の人が金持ちになっていくということに人間の感情はたいてい耐えられません。逆に…自分がちょっと貧しくなってでも他人が大金持ちになるのを防ごうという思う人も少なくないでしょう。このような嫉妬の感情が支配的になってしまうと、経済政策の本道を行うことができなくなってしまいます。
このことは、脳科学者の間でも常識であることを、池谷は「和解する脳」でこう明かしている。
「和解する脳」PP.220-221ヒトはカネを使ってまで不正をただす
池谷 マネーに関して、われわれ脳研究者のあいだで有名なゲームに、アルティマ・ゲーム(ultima game)というものがあります。
鈴木 アルティマ・ゲーム?
池谷 ほんとに簡単なゲームなんですよ。2人に参加してもらうのですが、片方の人が第三者からお金をもらうんです。たとえば、1万円もらいます。で、もらった人は、もう片方の人にも分け前を与えるんですが、いくらわけてもいいんです。全部自分で取っちゃってもいいし、全部あげてもいい。ただし相手側は、もし取り分が不満だったらそれを拒否することができる。拒否すると両方の取り分がゼロになっちゃうんです。では1万円もらったとして、鈴木さんならいくら渡します?
1円以上であれば拒否せず受け取るというのが「経済学的」な正解であることは経済学者でなくてもわかる。ところが1,000円や2,000円だと、相手だけではなく自分も損なのに、拒否してしまうというのがこのゲームの面白いところだ。拒否されないしきいは4,000円ぐらいにあるそうだ。
このアルティマ・ゲーム、有名だけあって行動経済学を扱った本であればほぼ必ず登場するのだけど、ここで私はつっかかってしまうのだ。「逆に…自分がちょっと貧しくなってでも他人が大金持ちになるのを防ごうという思う」気持ちが、わからないので。このことは以前にも「404 Blog Not Found:メシウマってどんな味? - 書評 - 嫉妬の力で世界は動く」をはじめ、何度か本blogで書いている。
しかしそういう気持ちが存在することを前提に行動しないと、思わぬところで足をすくわれる。私がサリエリだらけのこの世でモーツァルトより長生きできた理由は、これが一番だと踏んでいる。
で、ここからはさらに仮説なのだが、実のところ人の感情を「フルセット」で持っている人というのは意外に少なくて、かなりの人が「足りない」感情を「エミュレーション」で補っているのではないか?いや、それどころか「嫉妬」のような社会的感情というのはどの程度「プリセット」されているのか。「嫉妬がない」人が人生のあちこちで損をする姿を横目でみながら、「こうすればよい」ことを後天的に学習しているのではないだろうか?
Free Won't しかない世界においても、メニューそのものを増やすことは不可能でもなんでもない。「このメニューにないアイテムは存在しないのですか」と問うことも含めて。
それこそが、科学の効用ではなかろうか。
PP. 231-232鈴木 科学って、最初に始まったころには、おそらく「知る技術」みたいなものだったわけですよね。知ることによって予測性を高めて、生存確率を上げてきた。つまり、人間がよりよく生き残ってゆくための知恵として始まったものだと思うんです。
池谷 確かにそうです。知恵はよりよい未来に向かって開けています。じつは、脳そのものについてもこれは真で、たとえば「脳の機能をひとつだけ挙げよ」って言われたら、間違いなく「予測」ですね。多様に見える脳機能もつきつめると、ほとんどすべて予測おnためだと言っていいくらい。予測のために、記憶や学習をするし、時には快を欲したり、恐れたり、あるいは価値判断をしたりする。
でも、脳の予測性はそんなに高くないから、科学が脳の予測性を補完するという形で、人間が人類のために編み出したわけです。科学についての実用性という見方はまったくそのとおりですよね
だとしたら、経済学が科学になるためには、嫉妬という感情をきちんと扱えるようになることが絶対に必要なのではないだろうか。私ですら薄々それに気が付いているのである。世の先生方がそれを見て見ぬ振りをするのは、科学的態度とは言い難いはずだ。
Dan the (Pathologically?) Economic Animal
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