「皿が5皿ある。1つのお皿に3つずつりんごが載っている。全部でいくつか。」という問いに対して、5×3と式を立てるのは誤りか
正しい。誤りとするのが、誤り。
まず、「乗法の可換性に関してはまだ教えていないから、(かけられる数)×(かける数)でないと×(ばつ)」というものだが、twitterでも言った通り、可換性はまったく関係ない。
3x5=5x3問題、乗算の可換性は実は無関係であることは、分数を見ればわかる。2/3は「さんぶんのに」と日本語、英語ではtwo thirds (or two over three)。非可換な除算すらこう。すなわちどちらを先に書くかというのは人間の都合であって数学の都合ではない。
ましてや日本語は「教師が生徒に教える」とも「生徒に教師が教える」とも言える言語である。「教える」という言葉は非可換だが、にも関わらずこうして文法的に全く破綻なく語順を入れ替えられるのである。
次に、実例。
高校の物理では、PV = nRTという公式を習うはずだ。これは見事に「(かけられる数)×(かける数)」という「原則」を破っている。「単位x個数」というのであれば、なぜnが最初にくるのだろう?。これ、実は「定数を先に書く」という数学の「定石」からも外れているが、外れているのは E = mc2 も同様だ。なぜnRTになったのか、私には知る由もないが、とにかく私はRTnではなくRnTでもなくnRTと四半世紀後の今も覚えている。あまり使う機会がないのが残念だが。
しかし私が言っておきたいのは、そんな自転車置き場の議論じゃない。
「3x5≠5x3」のダメなところ、それは何より、それが教える側の都合の一方的な押しつけになっていることだ。あたかも「教える」の非可換性は絶対であるかの主張である。
こういう教え方を繰り返すとどうなるか?
ほとんどの子は、自ら正解を探すのではなく、教師に答えを求めるようになる。それは教師に答え合わせしてもらわないと安心できないところまで続く。
ごく稀にそれには満足できず「ぐれる」子が出るが、学年に一人いるかいないかといったところだろう。私自身がそうだったのでよくわかる。今もこの比率はさほど崩れてはいないはずだ。いや、むしろ減っているかも。「教えたがる親」も増えている実感は確かにあるので。我が家も片方はそうだったが、今では両方ともそうだという確率は上がっているやも知れぬ。
これこそが、失業率が上がったのに人材不足も上がるというパラドックスの真因ではないか?
雇用者、いや顧客が求めているのは、まだ誰も答えを知らない問題を解く人材なのだから。
一社会人として、「そんなの教わってません」という答えを聞く程情けないことはない。まだ「バカなのでわかりませんごめんなさい」と言われた方が優しい気持ちになれる。
弾言しとこう。
「そんなの教わってません」で済むんなら大人はいらんのだよ、若いの。
Dan the K-12 Dropout
だとは思うんですが、それで問題を解ける人が育ちますか?
子供の成長の源は大人の理不尽だと思います。
それに戦わないと自分でものごとを考えません。
教師もこの答案をどのように採点するのか文部省から教わってません。
なんてこと言ってる人が多いような。
要は子供も大人も戦わない、戦った経験が少ないと
どんな問題も解けないと思います。