終翁、わりい、これじゃよけいわかなんない。

というわけで、私も考えてみた。

「自衛隊は暴力装置ではない。暴力装置は国家」って言われても、「SDカードは記憶装置ではない。記憶装置はパソコン」って言われているのと同じで、装置は装置で出来できている以上、「自衛隊も暴力装置かつ日本国も暴力装置」の方が「どっちか片方が暴力装置」というより「非暴力的」にしか受け取れない。

それじゃなぜ、Gewalt(独)やviolence(英)を、「暴力」とするのに違和感を感じる--人が私を含めて多い--のか。

"Gewaltmonopol des Staates"は英語圏では"monopoly on legitimate violence(正統な暴力の独占)"と理解されてきた

「暴力」は「正当」じゃないから?だとしたら米軍がアフガニスタンとイラクでやっていることは「暴力」じゃないってことになるけど、私はやはりあれば「強制力」より「暴力」と呼ぶ方がぴったり来ると感じるし、隣国の自国民に対する力の公使も「暴力的」だと感じる。

違うのよ。正当性じゃないの、強制力と暴力の違いは。

「暴」って字をもう一度見てみよう。暴く、暴れる、暴風、暴雨、暴投、暴発、暴言、暴走、暴動…これらに共通することは、一体なんだろう。

統制が効かない、 out of control ということではないのか。そう。おっぱじめた本人をも含めて。

ふりかえって英語のviolenceを見てみる。Wikipediaではこうだ。

Violence - Wikipedia, the free encyclopedia
Violence is the expression of physical or verbal force against one or more people, compelling action against one's will on pain of being hurt. Worldwide, violence is used as a tool of manipulation and also is an area of concern for law and culture which take attempts to suppress and stop it.

こちらはずっと「強制力」という意味合いが強い。強制というからには、強制したモノの意のとおりに強制されたモノが動いてくれたら、それは「暴」ではないわけだ。

で、その「強制力」の「実績」に今度は目を向けてみる。すると、以下の結論に達する。

強制力が強制力の範囲に収まっているのは、それを使っていない時に限る。使ってしまえば、それは暴力となる。

ありていに言えば、脅しだけで屈してくれれば強制力、一発でも殴ってしまえば暴力ということだ。

それが個人か法人か装置か国家かは、あまり関係ない。

わかりやすいところで、アルカイダvsアメリカという二つの「暴力装置」を考えてみる。9.11テロはアメリカをアルカイダの意の通りに動かしたか?オバマの言うところの「二つの戦争」は、アメリカの意の通りに両国を動かしたか?どちらもそうでないのは、どちらも力の行使をやめていないことからも明らかではないか。

力を強制力に留めておくのは、ピタゴラ装置を意のままに動かすより難しい。それを国に預ければ、確かに行使の回数は減るかもしれないが、「暴力度」、つまり想定の範囲に収まらなくなる度合いはかえって悪化するようにすら見える。

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怒らないこと/怒らないこと2
アルボムッレ・スマナサーラ

そう考えを突き詰めて行くと、あることにふと気づく。

そもそも私たちは、自分たち自身の意をきちんと知っているのか、と。

それを知らないから、怒る。

自ら暴力をふるうどころか、暴力装置の発動を安易に求める。

それが、「怒らないこと」「怒らないこと2」の主張というより、そうブッダは言っているよという著者の主張だ。私にはぐうの音も出ない。

暴力装置の管理人たちは必読ではないか。

自分の意図をきちんと知ろうとしたら、他者を力で意のままにしようなどという手間暇などなくなる。そういう手間暇を自らにかけないから、「てっとりばやく」人様を力で動かそうとする。しかしそれで人が動いても、たいていは「こんなはずじゃなかった」となる。少なくとも私はそうだ。

だったらそんな自暴はええかげんやめて、自省した方が自制できるんじゃないの?

で、100%自制できたら、世界を制したのと同じ--かも。

話をふりだしに戻すと、「暴力」を行使したことがないという意味において、自衛隊はまだ暴力装置ではないという主張はありうる。しかしあえてそれを「暴力装置」と名付けておいた方が、そうでないよりよほど非暴力的だと私は思う。その方が引き金を引くときによほど慎重になるではないか。同様の理由で、私は「自衛隊」という呼称が気に食わない。我々はしょせん自制もままならない暴力装置の集まりなのだ。いざという時「自衛」で収まっているというのは、自信過剰というものだ。

え、こんなの「釈迦に説法」?それならいいんですがね…

Dan the Apparatus of Violence