双方とも出版社より献本御礼。

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ハーバード白熱教室講義録
+東大特別授業(上下)
Michael Sandel
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正義論

John Rawls /
川本隆史福間聡神島裕子
[原著:A Theory of Justice: Revised Ed.]
(Google Books)

両著が同時に、それも自国語で読める読者は幸いかな。

「正義論」は、単体で消化するのはまず無理であっただろうから。素肌が水を弾くのに似て。

正義論」は、「ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業」の骨格。あるいは「ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業」は骨だけの「正義論」に肉付けをしたもの。

そう。邦訳で800ページを超える「正義論」には、見事に骨しかない。どういうことかというと、具体的事例や歴史的事件がほぼ完全に欠如しているということ。もちろん著者が意図的にはぎ取ったのである。本書に出てくる固有名詞は、ほぼ全て哲学者の名前であるのも、彼らの論を論じるためであって彼らの直面した問題を例示して話をわかりやすくするためではない。

そう。わかりにくい。「正義論」は、実に読みにくい本である。文章は難解ではない。しかし定理と証明ばかりが登場し、例題の全くない数学書が読みにくいのと同様、一般化・抽象化された論の純粋な連鎖がかくも読みづらいものだとは。1970年に出た初版は全世界で50万部も売れたそうだが、本当に読んだ人がどれくらいいるのだろうか。

しかし著者自身「かなり冗長である」と述べているとおり、本書は一字一句きちんと読まねば「使えない」という本ではない。本書の結論は、オビに要約できるほど簡潔で完結である。

〈社会的・経済的不平等は、多数派の利益だけではなく全員の利益になっている時に限り、許容される〉
「生まれつき恵まれた立場におかれた人々は誰であれ、恵まれない人々の状況を改善するという条件に基づいてのみ、自分たちの幸運から利得を得ることが許される」

本書がこれほど冗長なのは、それ以外の「各論」を「論破」、それも論のみを用いて破るためでもあるが、ここで一つの疑念が生じる。なぜ著者は物語をこれほど避けたのだろうか。

物語がいかに話を飲み込みやすくするかは、「正義論」と「ハーバード白熱教室講義録」を読み比べるだけでわかるだろう。他人事だった論が、物語になったとたんに「自分が今直面している問題」となる。だから教室は白熱する。しかし「正義論」では、「燃料」は全て抜いてあり、そこにはむき出しの雷管だけがおいてある。これではいくら火がついても、火花で終わってしまうではないか。

その疑念は、訳者あとがきを読むとさらに深まる。Rawlsは象牙の塔で論ばかりこねくり回している、ステレオティピカルな哲学者のイメージから180度違う前半生を送って来たのだ。

P. 777
卒業の翌月、陸軍へ入隊。歩兵としての基礎訓練を受けた後、米第三二師団百二十八連隊のF中隊に配属されてニューギニア、フィリピンを転戦し、占領軍に連なって四十五年九月には日本の地を踏んだ。四ヶ月間のGHQへの服務中、軍用列車に乗せられた彼は被爆直後の広島を目撃。また上官を侮辱した兵士を罰せよとの命令を拒否した科により、下士官から一平卒へ降格処分を受けるにいたっている。

まさに世界最強の軍隊に対しすら譲らなかった「正義の人」であり、正義ゆえに受けた受難のエピソードに事欠かない人でもあった。しかしこの正義の原体験は、「正義論」には一切登場しないのだ。もし登場していたとしたら、本書は50万部ではなく500万部売れたのではなかろうか。

この「論に物語を持ち込まない」というのも、Rawlsの正義の一環をなしているはずなのだが、なぜそれがRawlsにとっての正義となるのだろうか。それを読み解くのが、「正義論」のもう一つの読み方かも知れない。

Rawlsにとって、物語の添付は「多数派の利益」とはなっても「全員の利益」とはならないという判断だったというのが私の読みだ。確かに物語は話を分かりやすくする。しかし「敵」なくして「正義の物語」を紡ぐことは難しい。しかし「全員の利益」を志向する以上、それは「反則」というわけである。

それがほんのかすかに覗いている箇所がある。本書では数少ない、実例が出てくる一節である。

第79節 社会連合という理念
〔南北戦争で北軍の将軍であった〕グラントと〔南軍の将軍であった〕リーは、リッチモンドを占拠したいという彼らの欲求にあっては同一であったものの、この欲求は彼らの間に共同体を成立させなかった。

グラント、リー両将軍の名は、この箇所には登場しても巻末の人名索引には登場しない。

そしてこの両将軍はなぜ相見えることになったのか、

「全員」とは誰かの定義が一致しなかったからだ。

具体的には、黒人は「全員」の一員か否かということだ。

「生まれつき恵まれた立場におかれた人々は誰であれ、恵まれない人々の状況を改善するという条件に基づいてのみ、自分たちの幸運から利得を得ることが許される」。しかしRawlsは「人々とは誰なのか」をつまびらかにしない、しかし「人々」に何を代入するかによって、この主張の解釈には北軍と南軍ほどの違いが生じる。

代入。Sandelがやっているのが、まさにそれである。

そこには一つの諦念がある。

Restlessness of the Reason という、諦念が。

「正義は行ってなんぼ」であり、そうである以上「論」ずるだけでは使えない。その点はRawlsも同意するだろう。

にも関わらず、なぜRawlsは「論」で留めたのか。

それこそが、「正義で負けた」Rawlsが達した、「正義の逆襲」なのだろうか。人は死ぬが、論は死なない。彼の正義を降格をもって拒否した連邦が死んでも、正義を考えるだれかがそこにいる限り、彼の論は死なないだろう。

しかし、論は論のみでは何ももたらさない。そこに現実を代入して、論ははじめて人を動かす。

この点において、 Communitarianism は Richmond で、 Rawls と Sandel は Grant と Lee のように見える。どちらが Grant でどちらが Lee かはわからないが…

Dan the Fair Reader