なぜそうなったのか?

才能の枯渇について (内田樹の研究室)
「自分の才能が自分にもたらした利益はすべて自分の私有財産である。誰ともこれをシェアする必要を私は認めない」という利己的な構えを「危険だ」というふうに思う人はしだいに稀な存在になりつつある。

実に単純な答えが存在する。

才能を、換金できるようになったからだ。

拍手は貯められないがおひねりは貯められるということだ。

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モチベーション3.0

持続する「やる気!」をいかに引き出すか
Daniel Pink / 大前研一
[原著:Drive: The Surprising Truth About What Motivates Us]

どんなに優れた才能があっても、パフォームしなければ拍手は得られないが、おひねりは一度得てしまえば、それが尽きるまで使い続けることが出来る。その上拍手というのはその場にいなければ、いやその場にいてさえその多寡を推し量るのは難しいが、おひねりの多寡であれば数字としてきちんと現れる。

そして拍手はその場にいる「みんなのもの」であるが、おひねりは「わたしのもの」である。

これで勘違いするなという方が、無理がある。

ましてや拍手は食えないが、おひねりは食い物と交換できるのだ。

Pinkも「モチベーション3.0」で言っている。才人には平均以上の賃金を支払えと。

しかし同時に指摘しているのは、賃金を倍にしたところでパフォーマンスが倍になるわけではないということだ。それどころかパフォーマンスが落ちることさえあることを改めて示したところに、同書の価値がある。

このことから、何が言えるだろうか?

「おひねりがないと食えない」と才人に思わせるのは得策ではない、ということである。そう思わせれば思わせるほど、才人たちは蓄財に奔ることになるのだから。ただし、前述のように「平均以上の賃金」でないと才人は萎えてしまう。「やってもやらなくても何も変わらない」のでは才人でなくとも何もやらないし、やらなくてはそのもそも才能があるかどうかに気づくことすらない。

なんだか矛盾して見えるが、それはものごとを定性的にしか見ていないからである。定量的に見れば、一人当たりの金というのはすでに「これより少ないと食えない」というレベルを大幅に上回っている。とりあえず「これだけあれば食える分」を配った上に、残りを才人どおしに競わせるという方法は、現状でも十分可能なのである。

それでも、トップの才人は使い切れないほどの金が集まる。

この金はどうすればよいのか?

だから、人間らしいふるまいを怠ると、「人間的に悪いことが起こり、人間的に死ぬ」のである。
生物学的には何も起こらず、長命健康を保っていても、「人間的には死ぬ」ということがある。
贈与のもたらす利得を退蔵した人には「次の贈り物」はもう届けられない。

生きている才人をこのように脅すのは無駄で無為だと私は考えている。彼らの多くははもう「次の贈り物」などなくても食って行けるほど金をためてしまってるのだし、金がない頃にはその異才ぶりをもって「非人間的」だといわれ、金が出来たとたん今度はその金をもって「人間的に死んでいる」などというのではますます彼らが人のために才能を発揮するインセンティブは減ってしまう。

そんなことしなくても、ただ待てばいいのである。

彼らが、生物学的に死ぬのを。

死に装束にポケットはない」はないのだから、彼らが使い切れなかったおひねりは、彼ら以外の誰かのものに必ずなるのだから。

これを、「これだけあれば食える分」として配ればいい。

なぜ私が「働かざるもの、飢えるべからず。」と言っているかといえば、つまりはそういうことなのである。

Dan the Gifted