あ、あと一日残っている。

じゃあ最後に紹介するのは、これにしよう。

本書「希望のつくり方」は、希望というつかみどころのないなにかを、依然曖昧模糊とはしているけれども、互いに語りうるなにかにまでまとめた一冊。

目次
第1章 希望とは何か
第2章 希望はなぜ失われたのか
第3章 希望という物語
第4章 希望を取り戻せ
おわりに―希望をつくる八つのヒント

本書にも繰り返し引用される「希望の国のエクソダス」に、「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが希望だけがない」という印象的な台詞が出てくる。この台詞ほどには同書は印象的ではないのだが、それはとにかくこの台詞に対して強烈な違和感を私は感じつつ、その違和感をどう言語化してよいのかわからなかった。

これで、言える。

あの台詞のどこが間違っているかを。

著者は希望をこう定義する。

Hope is a Wish for Something to Come True by Action.

[希望]とは、「行動によって][現実化する][何か]である。

そう。行動によって現実化する何か。

だとしたら何もせずともそこに転がっている何かは、何であれ希望ではないことになる。

希望は、あったりなかったりするものじゃない。

作ったり作らなかったりするものなんだ。

なぜ日本で希望が成り立ちにくい--あるいはそう感じる--のかも、これでわかる。

他の国では希望せねば手に入らぬものが、すでにそこにあるからだ。

ものによっては「希望された国」で成就したものすら、日本の方が簡単に手に入ったりする。YouTubeもiPhoneも、希望された国よりも「希望のない」日本の方が遥かに快適に使える。まだかの国では希望せねば手に入らないことも多いブロードバンドが、すでにあるからだ。

その一方で、日本は正義の名の元に「とりあえず」「不可解な希望」を潰していることもよく見受けられる。今年を振り返っただけでもlibrahackに青少年育成条例…。この10年(decade)を振り返ればライブドア事件にWinny裁判…。

しかしこれらの事件は、希望の芽が摘まれた事件であると同時に希望の芽が芽生えた事件でもある。行動した者が次の行動に出たからだ。こういう動きは以前ならば考えられなかった。

むしろ希望とは麦のごとく、踏まれることによってより強く育つものかも知れない。中国人に言わせれば、日本人に生まれたのはイージーモード選択の結果だそうだし。

来年あなたはどんな希望を作りますか?

Dan the King of Wishful Thinking