光文社新書編集部より献本御礼。

著者が曰く、予防接種は「ほとんどの人には打っても打たなくても、何もおきない。しかしほとんどの人が打つことで、その感染症は確実に減少する」。

その意味において、本書はまさに「読むワクチン」。値段は「本物の」ワクチンの1/10で、しかも副作用はほとんどない。こういうものこそ「接種を義務づけて」もらえないものだろうか>厚労省

本書「予防接種は「効く」のか?」は、第一線のプロによる予防接種論。これには各種ワクチン(vaccine)そのものの効用と副作用のみならず、予防接種(vaccination)という社会的行為の効用と副作用までが含まれている。

目次
はじめに
1章 ワクチンをめぐる、日本のお寒い現状
2章 ワクチンとは「あいまいな事象」である
3章 感染症とワクチンの日本史…戦後の突貫工事
4章 京都と島根のジフテリア事件…ワクチン禍を振り返る
5章 アメリカにおける「アメリカ的でない」予防接種制度に学ぶ
6章 1976年の豚インフルエンザ…アメリカの手痛い失敗
7章 ポリオ生ワクチン緊急輸入という英断…日本の成功例
8章 「副作用」とは何なのか?
9章 「インフルエンザワクチン」は効かないのか?…前橋レポートを再読する
10章 ワクチン嫌いにつける薬
あとがき

日本は、そのどちらにおいても「お寒い」国であることは、子供を持ったり海外留学したりなど、きっかけを得た人であればよく知っていることであろう。私はその双方に該当する。米国留学した際には英訳した予防接種記録が必要で、そして不足した分はかの地で接種を受けた。もちろん無料である。ところが娘達の予防接種には、一回7000円前後の出費を強いられている。特に憤りを感じるのがインフルエンザで、高齢者であれば無料の定期接種が受けられるのに子供はそうではないのだ。

ところがかつてはそうではなかったのだ。1969年生まれの私はvaccinationという言葉の語源でもある種痘すら受けていて、今も左肩にその後が残っている。その他の予防接種もかなり受けさせられた。それでも米国基準で「足りない」ものがいくつかあったのは前述のとおりであるが、当時を思い起こすと注射針すらまだでディスポーザブルではなく、それによる事故も実はあったのではないかとちょっとだけ怖くなる。

「失われた20年」で本当に失われたものは実はそれほどないと私は本blogでも拙著でも言って来た。もし本当に失われたのだとしたら、モノに関してはインフレになるはずなのにその逆ではないか。しかし予防接種に関しては、この四半世紀はまさに「失われて」いる。なぜそうなってしまったのか?

せめて本書でその理由だけでも確認していただきたい。そして本書が失われた予防接種と免疫力を取り戻すきっかけとなることを望まずにはいられない。

それだけに、著者に苦言を一つ。

予防接種の新書を読んで欲しい理由: 楽園はこちら側
だから、僕はなんとかがんばって工夫して、僕の本のほうが「なんたらワクチンはいらない」よりも人口に膾炙するよう、しがない努力をしているのである。

努力というのであれば、なぜ書影もネット書店へのリンクもblogにないのか?1994年当時(この年にどういう意味があるのかは本書を)ならとにかく、2010年の今、本というのは著者にとっても書いたらおしまいというものではなく、書いてからが本当の始まりだということをご存知ないのか?編集部は著者への「接種」を怠ったのか?

それでも私のところに「接種」がまわってきたのは、それを補ってあまりある。だから私は私の役を果たすことにしよう。

なぜ予防接種なのか?

なぜかかってもいない病気のために副作用のリスクを背負ってまで接種を受けるべきなのか?

自分以外の人も、それで助かるからだ。

このことはいくら強調してもしたりない。これこそ人類の叡智の名にふさわしい所行ではないのか?

私の娘達の腕には、種痘の跡がないのは、私の腕に種痘の跡があるから。

「人類のため」というあまりに大きな主語が、等身大になる。それが予防接種なのである。

Dan the Vaccinated