著者より献本御礼。

力作。こういう本を待っていた。

裁判官に気をつけろ!」とあわせて。

本書「最高裁の暗闘」は、三権の中で最も知られていない司法のトップ、最高裁判所の「傾向と対策」。

目次
イントロダクション 少数意見のストラテジー
第1章 最後の砦 揺れる死刑
第2章 地殻変動 選挙権が認められるまで
第3章 正統と異端 「藤山判決」を追って
第4章 伏流水 国籍法違憲判決の舞台裏
米国編 リリーの訴え、判事の怒り。そしてオバマが署名した
終章 最高裁はどこへ

最高裁判所を語るにあたって、現時点において本書以上の要約はないと思われる。別の言い方をすれば、新書である本書以上にそれを要約してしまえば、それは「端折り過ぎ」ということである。それを承知の上で、本書から伺える最高裁の傾向で最も重要なものをここで述べておきたい。

それは、「もの言わぬ裁判所から、もの言う裁判所へ」ということである。

それが端的に見られるのが、死刑判決の扱い。永山事件では

極刑がやむえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわねばならない

だったのが、光市事件ではこうなっている。

極刑がやむえないと認められる場合には、死刑の選択をするほかないものといわなければならない

なんともどえらい違いである。「死刑でもOK」から「死刑でなければNG」になったのだから。

なぜそうなったのかは本書に譲るが、法曹でない一般市民としては、それが何を意味するのかは知っておく必要がある。それが何を意味するのか。こういうことが増えるということである。

まねきTV事件にみる「司法の逆噴射」 : アゴラ - ライブドアブログ
まねきTV事件で原告(NHKと民放キー局)が勝訴する最高裁判決が出て、日本でテレビ番組の第三者によるネット配信はほぼ不可能になりました。この判決が全員一致で決まったのは、ネット配信を原則禁止した著作権法の規定を厳格に守らせるという最高裁の「国家意志」によるものでしょう。

国家意志というより司法意志。こういうのもなんだけど、弁護士出身者二名、学者出身一名で、裁判官出身がマイノリティである第三小法廷は、小法廷のうちでは一見「最も市井の話がわかりそう」な布陣である。にも関わらず同判決がこれほどの「逆噴射」をしたのはなぜなのか?

答えは、多分ここにある。

著作権法
第1条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。

著作権法は、誰のためにあるのか。

著作者のためにある、とここに書いてある。

著作権法そのものの是非はさておき、著作権法が誰のための法律であるかを考慮すれば、今回の判決は技術的には屁理屈でも、理念的には「あるべき」判決ということになる。

だから、本当の問題は「逆噴射」ではない。

利用者を保護する法律がないことなのである。

最高裁の判決に勝てるのは、法そのものだけなのだから。

いや、法こそが、最高裁の意志なのだから。その意味で最高裁そのものは自らの意志を持たない。積極司法への転換は、むしろそのことをはっきりさせる。

消極司法から積極司法への転換そのものは、法治国家にとって歓迎すべきことだと私は考えてはいるが、しかしそれは健全な立法府が、立法をもって司法をリードしてこそだとも考えている。しかし現状はご覧のとおり。過払い請求にしても今回の判決にしても、立法は滑稽なほど司法においてけぼりにされていて、差は開くばかりだ。司法が投げたボールを、立法はきちんと受け止めていない。尊属殺人罪の違憲判決一つとっても、最高裁判決から法改正まで22年もかかっている。

「消極司法から積極司法へ」という流れのさらに底には、「行政の暴走にどう歯止めをかけるか」という戦後からずっと続くさらに大きな流れがある。その意味で最高裁は「がんばってきた」と言えるのではないか。昨今ではそれが国全体を逆噴射させるほど。

結局、話はここに戻ることになる。

立法府よ、しっかりしなさい。

Dan the One of the People