ベストセラーズ大坂様より献本御礼。

これ、数学的に考えてまちがいなく小島寛之の最高傑作。

なぜなら

高校生のための文章読本」pp.208
  1. 良い文章とは
    1. 自分にしか書けないことを
    2. だれが読んでもわかるように書いた文章

というこれまた数学的な判定基準に照らし合わせて、1の点でも2の点でも最高だから。

新著カバー - hiroyukikojimaの日記
店頭に並ぶのは、明日ぐらいになると思うので、 明日あたりに推薦文を書きます

著者を出し抜くことになってしまうが、それでも書かずには入られない。実は別件で私も自薦文を書かなくちゃいけないのだけどこっちが先だぁ。

本書「数学的思考の技術」は、数理経済学者である小島寛之にしか抱かなかった着想を、数学的思考のかけらさえあればだれが読んでもわかるように著された一冊。

はじめに
第1部 不安定な毎日を生き抜くための数学的思考
第1章 相手が自分の思い通りに動かすには
人々にルールが必要な理由 / インフレ政策は成功しない?
第2章 給料が上がらないのはなぜか
固定給にはそれなりの必然性がある / 経営者と社員のリスクシェアリングとは / ボーナスは何のためのものか / 社員をまじめに働かせるには
第3章 人に本音をいわせるテクニック
「ただ乗り問題」をどうするか / なぜ正直にさせることができるのか
第4章 「だらしなさ」の経済学
「多重債務に陥る人」はどうして生まれるのか / 一貫性の欠けた人の思考法 / 夏休みの宿題をあと回しにする性向
第5章 年金問題を数学から考える
ヒルベルトの無限ホテル / 破綻しないネズミ講はなり立つか
第6章 協力って、大事?
ゲーム理論を理解する / みなが納得する利益配分とは / 売買も協力ゲーム / 協力が達成できない構造
第7章 不確実な世界における行動法則
「人生の確率」は人それぞれ / 投資家が尻込みするとき / 人々が衰退産業にしがみつく理由
第8章 勝ち組は、運か実力か
ネットワーク外部性の重要性 / 勝者は偶然によって決まる? / 市場の摩擦とサーチ理論 / 金融市場における「ヒット」と「閑散」 / 健康保険と「大数の法則」
第2部 幸せな社会とはどういうものか
第1章 どんな経済、社会が望ましいか
経済メカニズムと幸福のかかわり / 不況時は正義感が仇となる / 「環境にやさしい」は損? / 「欲望の二重の一致の欠如」と貨幣の役割 / 意外なとばっちり
第2章 今、コモンズを考える
コモンズの悲劇 / 絶望するのはまだ早い / 公共事業は失敗したけれど
第3章 デフレ不況への処方箋
不況が起こるメカニズムと小野理論
第4章 伝統的な経済学の限界
「抜け目ない裁定戦略」の不可能性 / ケインズに影響を与えた理論
第5章 お金より大切なものはあるか
社会的共通資本という新概念 / ハーディンの悲劇 / ベーシックインカムは有効か / デフレ下ではどうか
第6章 私たちが暮らすべき魅力的な都市とは
ジェイコブスの4原則 / 実はやっかいな「多機能性」
第7章 人々の「不完全知」といかに向き合うか
社会的共通資本と公共財の違い / 「思い込み」を受け入れる / インターネットという非貨幣的な世界観 / 経済成長の呪縛から遁れる
第3部 「物語」について、数学的思考をしよう
第1章 世界を構成する「どうどう巡りの道具」
基本的な概念への問いかけ / 「ことば」と「数」 / 「数」と「貨幣」 / 「貨幣」と「時間」 / 「時間」と「ことば」
第2章 村上春樹のトポロジー--「あちら」と「こちら」のつなぎ方
村上春樹文学と数学 / 「生」と「死」
第3章 『1Q84』はどんな位相空間か
トポロジーとは何か / 会えそうで、会えない
最終章 暗闇の幾何学
数学というソフトウエア / 図形のイメージ / 組み込まれた論理 / どうにもならない不確実な世界 / 死を「相対化」するために / 暗闇の幾何学
おわりに

ここでいう「数学的」とは一体何か。

普通、ということである。

ふつう、ではない。

「ふつう」と「普通」は、本書における「数学」と「数学的」が異なるように、異なる。

「ふつう」は、「ありふれた」とか「まんなかへん」ということ。統計の言葉で言えばσの中におさまってますよ、ということ。

それに対し「普通」とは字の通り、「普遍的に通じる」ということ。

たとえそれが異なる言葉を話す人であっても。

しかしなぜ「数学的」であることが「普通」なのか。

本書の村上春樹論を読めばあなたにも腑に落ちることは確実なのだが、ネタばれを避けるためあえて他の本から「数学的であることが普通であるさま」の実例を持ってくることにしよう。「コンピュータが仕事を奪う」から、あえて私の書評ではなく著者による引用を孫引きする形で。

アマゾンの奥地には、他の文化から隔絶して独自の生活をしているヤノマミという部族がいます。独特な宗教観、世界観を持つ部族です。ヤノマミの女性は妊娠し、出産のときを迎えると、森に入っていき自力で出産をするそうです。そうして、嬰児を産み落とすと、母親がその子は精霊か人間の子か決定を下します。人間の子は母親とともに村に戻ってきます。精霊と決まれば、バナナの葉にくるみシロアリの巣に入れてシロアリに食べさせてしまうのだそうです。しばらくして、シロアリが嬰児を食べ尽くしたころ、母親はそのシロアリの巣に火を放ち、煙とともに空に帰すといわれています。これほどまでに、彼らと我々の倫理観、世界観には隔たりがあります。
 しかし、注目すべきは、このことに関する彼らの説明です。
 彼らはこう言いました。「嬰児は精霊か人間かのどちらかに生まれる。人間ならば村に帰ってくる。精霊ならば、天に帰る。あの妊婦は一人で帰ってきた。生まれ落ちたのは精霊だったのである。」
 おわかりでしょうか。これは、生まれ落ちた子が精霊であったことの「論証」なのです。ここでは、三段論法に加えて、対偶まで用いた論証が使われています。(中略)。論理はそれが形式化されているかどうかにかからわず、文化を超えて共通しているのです。

ヤノマミの発想は、現代日本人にはまったくもってふつうではないが、数学的であり、それゆえ普通に理解されるのだ。

本書に出てくる問題は、目次を見てのとおり現代日本人がふつうに気にかけている問題だ。そこにふつうでない発想を持ち込んだ上で、普通に考えを進める。これこそが、著者のいう「数学的思考の技術」なのだ。

だとしたら「ふつうでない発想」は余計ではないかとあなたは言うかも知れない。しかしそれでは「普通」には足りない。ふつうの発想であれば確かに理解可能だろう。しかし聞き手が理解してやろうという気にはならない。お笑いでいうところの、つかみが足りないのである。

blogもソーシャルメディアもある現在、普通に話を聞いてもらおうと思ったらふつうの発想ではふつうに埋もれてしまう。だから良い文章とは、1.自分にしか書けないことを 2.だれが読んでもわかるように書いた文章なのだ。1がなければ誰も見向きもしない。2がなければ誰にとってもわけがわからない。両方そろわないと駄目なのだ。

本書はこの1.と2.の組み合わせが絶妙。「年金はねずみ講である」という言説は、それこそ「ふつう」である。しかしそこにあえてヒルベルトの無限ホテルという、ねずみ講が成立する架空の仕組みを持ってくることによって、なぜ「ふつう」は犯罪であるねずみ講が、年金では成立してしまうかが見えてくる。年金とヒルベルトの無限ホテルをあわせるというのは著者独自の発想でも、しかしその発想を進めるのは普通の背理法。これなら普遍的に通じる。さらに加えれば、こういう普通こそがねずみ講を押し付けられた若者達により切実に必要とされている技術なのだ。ふつうでは勝てないのだから。

ここまでは、本書の評。ふつうはここで〆るのだが、ここで一つだけ本書に対する反論を。本書に、というより本書のベーシック・インカム論に対する反論を。

PP. 151
だからこそ社会の不安定化を防ぐためには、社会的共通資本の十分な公的供給と社会的管理が不可欠であり、市民の最低生活水準の保証は、金銭の給付ではなく社会的共通資本の充実によって行うべきである

この主張は、ベーシック・インカムに対する反論としてはもっとも説得力があるものだと私も思う。ひろゆきも似た主張をしていた記憶がある。別の言い方をすると、「現金より現物支給」というわけである。

もし「社会的共通資本とは具体的に何を指すのか」をふつうにではなく普通に定義できるのだとしたら、私も現物支給に賛成だ。道路、通信、エネルギー…普通に定義できる部分は少なくないし、私自身「ベーシック・インカムと引き換えに道路は全部有料にしよう」などとは主張していない。

しかしそういう「普通に定義できそうな」社会的共通資本でさえ、最終定義は結局できないのだ。たとえば食を確保するとしよう。それは米や小麦粉のような食材なのか?パンやラーメンのようにそのまま食える料理なのか?後者だとしたらその比率は?バナナはおやつに入るのか?

こうした、「どれかが必要なのだけど具体的にどれが必要なのかまではわからない」というものは、社会ではなく個人が選んだ方がずっとムリムダムラが少なくなるのではないか。要するに、普通が成立しない選択は、普通が成立する財、すなわち貨幣を渡してあとは各自に任せた方がよいのではないか、ということである。教育なんて最たるもので、それが社会的共通資本であるところまでは合意できても、では具体的に何を教えるかを社会的共通合意にすることはおよそ不可能ではないか。

とはいえ、ベーシック・インカムを見積もる上で、社会的共通資本は外せない。いくら支給額が多くても、社会的共通資本が少なければその効用だって下がってしまうのだから。「20万円支給します。ただし道路は全て有料。通信はすべて従量課金」というのは私だって願い下げだ。

しかしこうして議論がなりたつことそのものが、数学的思考なのだということは、著者も同意するはずである。数学的思考の技術とは、結局のところ面白くてためになる議論をする方法なのだから。

Dan the Thinker