ああ、わかった、ような気がする。
しかしなあ。そもそも、表現の自由って絶対不可侵でもなんでもないのよ。たとえば他人を傷つける表現の自由はない。これは重要なことなんだけどなあ。マンガは絶対的な聖域だって確信はどこから出てくるのだろうか。
アニメ「フラクタル」のぬるさの理由が。
現在進行形の物語を論評するのは避けたかったところなのだけど、あまりによい教材が今そこにあるので、私はそれをもって読者のみなさんを傷つける誘惑に耐えられない。
今期のアニメの一番人気といえば、「魔法少女まどか☆マギカ」だろう。何をもって一番人気とするかは異論もあろうが、ネットの反響ではもう圧倒的。「( ◕ ‿‿ ◕ )僕と契約して、魔法少女になってよ」は早くも「そんな装備で大丈夫か?」以上の流行語になりつつある。
そうなったのは第三話で戦死者が出たのがきっかけなのだが、実は「フラクタル」も第三話が「血の第三話」になっていて、そしてこちらの方が血の量も質もずっと酷い。丸腰の一般住民をマシンガンで虐殺しているのだから。そしてどちらもフィクションではあるが、魔法が出てこない分「フラクタル」の方がずっとリアルだ。
なのになぜ、「魔法少女まどか☆マギカ」で傷ついた人の方が「フラクタル」で傷ついた人より圧倒的に多く、そしてその傷は圧倒的に深いようにしか見えないのか。下手をすると、フィクションではなくファクトであるエジブトの事件をニュースで見て傷ついた人より多いのか。
私もよくわからない。私にわかるのは、知るということは傷つくことであり、知らしめるということは傷つけるということぐらいだ。
404 Blog Not Found:記憶とは、傷である。人類にとって、記録を取るとは、文字通り媒体に傷をつけていくことだった。石に石で傷つけ、粘土版にヘラで傷つけ、パピルスにペンで傷つけ、木簡に筆で傷つけ....これは現在においても、記録の基本だ。CD-Rというのは、強いレーザーでブランクに傷をつけて記録し、弱いレーザーでその傷を読む。
傷が深ければ深いほど、印象も深い。これは心理的(psychological)のみならず物理的(physical)にも事実である。
興味深いのは、誰かが傷つく様を見て得た傷の深さは、傷ついた人の数や傷の深さと全く比例しないこと。なぜ、絵空事の一登場人物の致命傷は、時として本当の事件による数百万人の致命傷より、深く我々の心をえぐるのか。
なぜogrishの検索結果を見て即時にブラウザのウィンドウを閉じてしまう人が、「たかが」一アニメの一シーンを食い入るように眺めるのか。
私もよくわからない。私にわかるのは、人は絵空事でも傷つくことが出来るし、心理的に傷つく事で肉体的(physical)に傷つき傷つけることを避けることが上手になるということぐらいだ。
しかし、記憶とは傷なのだ。嬉しい記憶も怒りの記憶も哀しい記憶も楽しい記憶も、すべて傷のなかにある。結局のところ、傷つきたくなかったら何も見ず、何も聞かず、何も嗅がず、何も味わわず、何も触らないしかない。
だとしたら、非実在で傷つくというのは実在で傷つくよりもよいことで、見た者をより深く傷つける作品こそよい作品ということにはならないだろうか。
しかしその作品自体は、知られるまでは誰も傷つけることが出来ない。本entryのタイトルは「表現とは、傷つけることである」だったのだが、そのことに思い至ってタイトルを変えた。どんなに心理殺傷力が大きな作品でも、それが知られなければ何も起きないのである。見たくなかったら、TVなりパソコンなりケータイの電源を落とすだけでいい。我々は「時計じかけのオレンジ」のアレックスではないのだ。少なくとも「本当」に人を傷つけ、その償いを社会から迫られないうちは。
その意味で、表現というのは地雷である。踏んだら確かに傷つくし、どう傷つくかは地雷とあなた次第。しかしそこに踏み入れなければ、何も起きない。だから表現規制を表現そのものを消すのではなく、「ここは地雷原です」という表示というメタ表現でやろうというのは一理ある。少なくとも地雷を全て撤去しろというよりは効果が見込めそうではある。
問題は、「ここは地雷原です」という警告がそんなに簡単に書けるかということだ。そしてそれを書くにあたって、地雷を踏まずに書けるのかということだ。「魔法少女まどか☆マギカ」の前に掲げるべき看板も、「フラクタル」の前に掲げるべき看板も私には書けない。ましてや東京都にそれが書けるとはさらに思えない。
ならばいっそ、各自が踏みまくるに任せた方がよいのではないか。本物の地雷と違って、傷つくのは心だけなのだし。
そして結局のところ、あなたも私も、これまでにつけてきた傷の集大成に過ぎないのだし。
その意味で、「傷」という言葉にネガティブな気持ちしか抱けぬ人々を私はかわいそうだと思う。しかし愛しいとは思わない。私が愛しいと思うのは、ありのままに傷つき、その傷を読ませてくれる人々なのだから。
だから地雷制作者の各位におかれては、もっと傷つく作品を作って欲しいと私は願う。足りないのは、規制ではなく心理殺傷力。踏んでも傷一つつかない地雷原を散歩するなど、それこそお互いに時間の無駄というものではないか。
A Collection of Scars Called Dan


(1)他人を傷つける表現の自由はない
表現の自由の濫用によって他人の人権を侵害してはならないけど、東氏の「傷つける」の意味が曖昧過ぎるよ。実際には主に表現物による他人のプライバシー侵害という事例に限られており、裁判で決着されています。筆者も結論として「もっと傷つく作品を作って欲しいと私は願う」っておっしゃてますよね?
(2)マンガは絶対的な聖域だって確信はどこから出てくるのだろうか
誰がそんなこと言ってるんしょう?東氏の妄想に過ぎないと思います。
(3)「ここは地雷原です」という警告がそんなに簡単に書けるか
なぜ書けないんですか?例えば筒井康隆氏などは冗談・販促のため帯に「この本は有害です」「この本は○○な人は読まないでください」「毒入り危険」などとと警告しています。それでも読むならそこから先は読者の自己責任でしょう。
(4)各自が(地雷を)踏みまくるに任せた方がよいのではないか
この「各自」に未成年は含まれますか?含まれるとしたら、業界の努力を踏みにじる暴言です。国家及び行政の介入を許さないため、ゾーニングを進めているのですから。それを犯してまで「地雷」を踏もうという未成年は自己責任としても。