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海の都の物語
(新潮文庫版全6巻)
塩野七生

念のためにお断りしておくと、私の手元にあるのは1987年刊行の中公文庫版。

もはや古典といっていい本書を、版形版元が最近変わったというわけでもないのにいまさらながら取り上げたくなったのは、これに対する「返事」がわりというかもどきというかをなんとなくしたためたくなったから。

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そもそも国防とは何か。ほとんどの人は国を守るのはなんとなく当たり前だと思っている(と思う)。だけど、本当にそうなのか?という疑問を常々持っていてそこを私は問いたかった。例えば第二次世界大戦中、多くの日本人は国を守ると考えて異国の地で戦死した。それは愛する家族を守るための尊い死だという人は多い。だけど本当にそうか?戦争に負けてどうなったか?アメリカに占領されてプライドはずたずただったかもしれないけど、それが原因で死んだ人は戦死した人に比べてごく少数だっただろう。

私にとって塩野七生の最高傑作は「ローマ人の物語」ではなく本作「海の都の物語」である。読んでいて面白いのは前者だが、ためになる、すなわちどちらが「なぜこれほど栄えた国が亡びてしまったのか」という設問を納得させられるかといえば後者だからだ。

日本人の読者には、さらにもう一つの条件が加わる。ローマ帝国とヴェネツィア共和国とどちらが日本に似ているか。圧倒的に後者である。方や大国そのもの。方や大国の刃境に立つ中堅国家。さらに「現代」という形容詞を冠して時代を絞れば、現代の日本の状況は同共和国の末期を思い起こさずにはいられない。地中海の覇者という称号も、大洋航路というイノベーションを手にしたスペイン、オランダ、イギリスといった「大西洋の覇者たち」によって矮小化され、そして質という強さはオスマン・トルコの量という別の強さに押され…という同国の末期を、アメリカと中国の間におかれた現代日本に重ねて読まずにいるのは難しい。

本書を読了した読者が、こう思わずにはいられないのもまた自然ななりゆきではある。「なぜ日本の外交はヴェネツィア共和国のそれと比べてこれほどバカでアホで間抜けなのか」、と。

しかし重要なのはそこじゃない。

あれほど賢く強かにがんばっても、それでも滅亡は免れなかったことである。

だが、私には、少なくともヴェネツィア史に関するかぎりこのような単に精神の衰微や堕落のみに立脚した論に、どうしても賛同することができない。なぜなら、ヴェネツィア人は、旧主先皇の政に従い、楽しみも節度も保ち、諌めは思い入れ、転嫁の乱れんことを悟り、民間の憂うところを知りながら、盛者必衰の理の例外になりえなかったからである。ならば、これには、別の理由がなければならないではないか。
ヴェネツィア人の特徴は、自分たちの持てる力を、周囲の状況とかみあわせながら、いかに効率良く運用できるかを追求し続けた点にあった、これが、ヴェネツィアが大をなした根本的な要因であったが、同時に、衰退の要因となったのである。

ベストが不十分だったからではなく、ベストを尽くしたからこそ亡びたというのである。

それがどういうことなのかを要約する能力は私にはない。各自本書に直接あたってほしい。「坂の上の雲」は溜飲を下げてくれるだけだが、本書は蒙を開いてくれる。

いつかはこの日本国もヴェネツィア共和国のように亡びると、私は考えている。それも、日本国が他国に滅ぼされるという形を取るのではなく、国家というシステムそのものが世界同時に滅ぶという形で亡ぶのではないかと。私が生きている間に来るかは微妙だが、私の娘たちの生きている間にはかなり確実に。

「いや、すでに有名無実化しているではないか」というのも一面の事実ではある。皮肉なことに、それは各国における自称愛国者の増加という形でおとずれる。ヴェネツィアもそうだったし、大日本帝国もそうだった。後者が亡びた時は日本国という別の国が建国されるに留まったが、次に亡びるときはもっと別の形になるはずである。

楽観的な解答としては、このようなものだろうか。

ヴェネツィアという共和国はなくなったが、ヴェネツィアは都として残った。まずはフランスの一都市として、やがてはイタリアの一都市として。日本の各都市は、これとは逆の形で残るのではないか。大に小が呑み込まれるという形ではなく、大から小が分かれるという形で。

だからこそ、引用しておかずにいられない。まだ国家というシステムが動いている今のところは。

「良識とは、受け身に立たされた側の云々することなのだ。行動の主導権をにぎった側は、常に非良識的に行動するものなのである」--当時の一ヴェネツィア人の手紙から。

領土や資金、いや人員さえも差し出すのは構わない。それが主導権に見合ったものであれば。例えば私は日本国亡き後の東京都に天皇は必要ないと考えている。京都にお戻りいただく方が互いに欲する主導権に合致するであろうから。

北方四島や尖閣諸島はどうなのだろうか?それらを差し出すことで、あるいは死守することでどんな主導権が得られるのだろうか?良識のぶつけ合いをしているうちに、良識しか残りませんでしたというのであれば、「相手」は何のせずして主導権を得ることだけは当時も現在も変わらない。

Dan the Aging Man in an Aging System