これが、真の魔法か。

[初出2011.04.24]

「最高」の「魔作」にして「最悪」の「法作」。その時視聴者は、かつてないほど大量の感動を手に入れるだろう。ボトムラインとして、今後は物語というものを、作品というものを、本作を観ずにして語れない。

以下、「視た」という前提で話を進める。ネタばれを避けたい人は[続きを読む]を押さないように。もっとも本作は遠からず古典となり、「好き嫌いはとにかくあらすじなら一応皆が知っている」ことを前提にできるようになるのだろうけど。

本作「魔法少女まどか☆マギカ」が示したのは、魔の真の姿であり、法の実の姿である。

魔とは、何か。

「よかれと願ってやっていることが、よからぬ方向にものごとをすすめるさま」だ。「業」と言い換えてもいいかも知れない。「どんな願いも、条理にそぐわないものである限り、必ず何らかの歪みを生み出すことになる」。これは本作の登場人物たちのみならず、我々生きとし生けるもの全てに課せられた真実でもある。そんなことはキュゥべえに言われるまでもなく、本作の魔法少女たちぐらいの年頃になれば誰もが薄々感づいてはいる。

しかし「やがてそこから最悪が生じるのは当然の摂理だ」と知りつつも、虚構でも、そして現実でさえ「せめて一度ぐらい、幸せな夢を見させて」と杏子ならずとも願わずにはいられないのも我々だ。そんな我々に「そんな当たり前の結末を裏切りだというなら、そもそも、願い事なんてすること自体が間違いなのさ」と超然と言い捨てるインキュベーターは最高の悪役にして魔のブローカーではあるが、悪魔ではない。もし悪を感じるのだとしたら、それは我々自身に由来する。キュゥべえが白無垢なのは、わけがある。

圧巻だったのは、ほむらの時間遡行さえその一環だったこと。「もう、誰にも頼らない。誰にわかってもらう必要もない」という渾身の強がりが、「お手柄だよ、ほむら」の一言でまとめられた時の無力感ときたら!

そしてそれがまどかの途方のない願いを成就させる「原資」になったというのが、最高のどんでん返し。「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます」。もうこの一言のために全てが用意されたと言っていい。そう。用意。それが本作を「魔作」にとどまらない「法作」にしているのだ。それが本作のコンプライアンス。

法とは、何か。

「破ったら罰せられるもの」ではない。「破ることすらかなわぬもの」だ。前者を「法律」、後者を「法則」と言い換えてもよいだろう。

デウス☆エクス☆まどか☆マギカ #madoka_magicaless than a minute ago via web Favorite Retweet Reply

まどかは、神となることで法律を書き換えた。その意味では本作は文字通りの神作でもある。

しかし本作は数多のデウス・エクス・マキナと一線を画す。その神(deus)の上に法(lex)を持って来ているからだ。

本作の世界では--そして現実の世界でも--、二つの法則からは神でも逃れられない。

一つは、保存則。「タダメシなんて、ありえない」という奴である。まどかがどうやって願いを叶えたか?「魔女徳政令」を出したわけじゃない。ありえた過去からありえる未来まで、やがて魔女になる魔法少女たち全ての因果を受け止めた、いや立て替えたのだ。ほむらが積み立ててくれた因果を使って。神となったのはその結果であって原因ではない。

だからあのBパートなのだ。そこではキュゥべえさえ、自分がインキュベートしていたのが魔女であることを忘れ、ほむらの話を「だとしても証明しようがないよ」と真に受けない。そして魔女なき世界には魔獣がいて、「悲しみと憎しみばかりを繰り返す、救いようのない世界」でほむらは戦いつづけている。

そしてもう一つが、熱力学第二法則。「簡単に例えると、焚き火で得られる熱エネルギーは木を育てる労力と釣り合わない」ってこと。これは魔の源ともなっている法則で、やはり書き変っていないのはBパートを見ればわかる。

なぜこれほど荒唐無稽な世界が、これほどリアルに感じられるかといえば、本作がその点において徹頭徹尾リアルだからだ。そこをジャンルだけでスルーできるのが魔法少女もので、魔法とはそれをシカトするための免罪符だったのに、本作は「いや、魔法とはガチな現実なんだよ」とばかり「本物」の魔と法を見せつけたのである。

では、奇跡はどうか。

実はあるのである。現実にも、本作にも。

質量保存の法則 - Wikipedia
まず特殊相対性理論によって「質量とエネルギーの等価性」から、系において保存されるのは「質量の総和」ではなく「質量とエネルギーの総和」であることが示され、さらに量子力学によって「不確定性原理」から、「質量とエネルギーの総和」でさえ短い時間であれば変動することが示されている

実はこの宇宙そのものが「その短い時間の間におきた変動」から生まれたというのがビッグバン理論のようである。奇跡は起きる。けど滅多に起きない。それではどの程度の奇跡であれば許されるのか。

それが、ほむらとまどかの間に残った、絆。

それが、あの赤いリボン。

本作が「ただの」物語ではなく、アニメであることがここで活きてくる。動画も、音も、あるんだよ。

もしそれが記憶だけなのだとしたら、キュゥべえも指摘するとおり「頭の中にある夢物語と区別が付かない」。しかしほむらにはリボンがある。まどかに託された、リボンが。

本作には、奇跡も魔法もあったのだ。Cパートはいわばその監査証明。あそこでつまづいた人も多いみたいだけど、過去のどんな作品より魔と法に正面から向き合った本作品からあれを省くのは、忠実義務違反以外のなにものでもない。

もし救い(salvation)というものが無条件にして裏付け不要の携挙(rapture)だとしたら、本作にそれはない。そんな何不自由ない結末が待っている奴らに、ただの気まぐれで魔法少女ものを演じさせるなんて、そんなの虚淵が許さない…よね?

しかしそんな「悲しみと憎しみばかりを繰り返す、救いようのない世界」でも、報われることならあるし、報いる(respond)ことなら出来るのだ。さやかの純情もほむらの献身も。救われなかったけど確かに報われたのだ。

作者たちも、視聴者たちも、多分。

有り難う。

魔法が支配する世界で、奇跡を見せてくれたことに。

Dan the Contracted