盟友宋文洲の大人気メルマガ「宋メール」連載コラムの第四回目をこちらにも掲載します。
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「失敗が許されない」という失敗
小飼弾
http://blog.livedoor.jp/dankogai/
あれからもう二ヶ月。東日本大震災の死者数1万4949人、行方不明者9880人(警察庁)。そして菅直人首相は中部電力に対し、浜岡原子力発電所のすべての原子炉の運転中止を要請し、中部電力の取締役会は9日これを受け入れることを決定しました。
「なぜ浜岡(だけが)」という疑念はすでにblogで表明しました。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51677615.htmlそれでも、私は中長期的に原子力発電所は廃止されるべきだと考えています。危険だからではありません。「失敗を許す」見込みがたてられないからです。
原発の賛否を巡って賛成派が必ず言うのは、「他の発電手段で人はもっと死んでいる」というものです。石炭は炭坑事故と公害で、石油は紛争で、水力は工事で…これらは確かに事実です。黒部ダムの建設では171人もの殉職者が出ましたが、その出力は「たったの」33万5000kW。福島第一原発で最小の一号機の46万kWにもおよびません。
しかしそれ以上に重要なのは、発電手段にかぎらず原子力以外の文明の利器にともなう事故を、我々は曲がりなりにも受け入れているということです。自動車事故で亡くなる人は、日本だけでも毎年五千人近くにおよびますが、だからといって自動車を廃止せよという声はほとんどありません。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/21554987.htmlそれではなぜ「だれも(日本ではまだ)死んでいない」原発は受け入れられず、事故死者が出ない日はない自動車が受け入れられるかといえば、理由は二つ考えられます。一つは、クルマには現状「代わりがない」こと。鉄道ではドアツードアになりません。対して原発は数ある発電手段の一つに過ぎません。いわば「ディーゼルカーか電車か」という違いで、客にとって違いはほとんどない。
そしてもう一つは、クルマを含めほとんどの文明の利器は失敗から学ぶ余地が与えられていること。「毎年五千人近く」と書きましたが、福島第一原発の運転開始の前年である1970年、この数字は1万6765だったのです。往事はシートベルト着用すら義務ではありませんでしたが、今ではエアバッグも標準装備。遠からぬ将来、自動運転が実用化することで死傷者は桁違いに減る可能性も見込まれます。
その間原発はどれほど変わったか?実はほとんど変わっていないのです。「臨界を止めても冷却を止められない」という本質的な弱点を、どの商用炉もかかえています。変えようがなかったという方が正しいでしょう。事故がない、いや認められない以上、本当の失敗から学ぶことが出来なかったのですから。
「この教訓を生かし、より安全な原子炉を実現する」ことは可能でしょう。問題は我々がそれを認めるかです。もし原発が唯一の発電手段であったらそうなったでしょうが、ご承知のとおり原発は one of many にすぎない。これではもっと失敗に寛大な他の発電手段の方に分があり過ぎる。他の利点をすべて足し合わせても、「失敗が許されない」という欠点を凌駕することは今後ともありえないと私は考えています。
Dan the Contributing Writer Thereof
日本に限れば少ないのですが、それでも人形峠では死者、被曝者は出ています。
海外でのウラン採掘現場での被曝者は殆ど考慮されていないのですから。
そもそも、石油利権の戦争の被害者を死者にカウントするのも変な話です。