盟友宋文洲の大人気メルマガ「宋メール」連載コラムの最終回をこちらにも掲載します。
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Free Won't
小飼弾
http://blog.livedoor.jp/dankogai/
六回にわたる連載も、これが最後になりました。最後ということは「この後」がないということです。それにふさわしい話をすることにしましょう。それは、「自由」について。それが本当に存在するかは実はまだ誰も証明していないのですが、その話をする自由は別の機会にまわすことにして、ここではそれが存在するという前提で話をします。
まず最初に知っておくべき事は、自由は未来にしか存在しないということ。過去はすでに決定してしまっているのですから当然ですよね。「東日本大震災も福島原発事故もなかった過去」を、我々は誰も選べません。あなたが数多の世界を束ね、因果の特異点となった魔法少女なら別ですが(苦笑)。
後悔と反省の違いが、そこにあります。後悔とは、もう自由が失われた過去に対して自由を行使できないかと悔やむ事。反省とは、すでに決定した過去を学習という形で利用して、まだ自由な未来に備えること。同じ過去を振り返るにしても、目的は180度異なります。
そしてもう一つ知っておくべきことは、自由というのは捨てるためにあるのだということ。「え!?自由主義社会においてもっとも崇高な価値が捨てるためにあるですって?!」。でも本当なのだからしかたがありません。レストランで何かを注文するとき、あなたは他の料理を注文する自由を捨てているのです。全部注文すればいい?全部お召し上がりになりますか?
選択とは、自由だった未来を決定した過去にすることです。
そして最後に知っておくべきことは、意識は選択できないということ。「やりたいからやる」のではなく、「やった結果やりたかったということがわかる」のです。これを「受動意識仮説」と言いますが、驚くべきことにどうやらそれが本当らしいことを「単純な脳、複雑な「私」」は指摘しています。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51212153.htmlだとすると自由意志(free will)というのは存在しないことになります。ということは自由は存在しないのでしょうか?同書は指摘します。「自由否定(free won't)ならあるよ」、と。「何をしたいか」は選べないけど、「何をしないか」なら選べる、と。そして最後に残った「何をした」が「何をしたかったか」を決めるのだ、と。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51199665.htmlということは、意識というのは「やってきたこと」だけではなく「やらされてきたこと」によっても決まるということになりませんか?その結果生じた意識は、いったい誰のものなのでしょうか?
心がけのたぐいが嫌いで苦手な私の数少ない心がけ、それは二択問題が出たら必ず三択目があるかを探し、三択問題なら四択目があるかを探すということ。n+1番目の選択を自分で用意すれば、たとえ相手が提示した選択肢を選んだとしてもそれが「やらされた」ことのではなく「やった」ことになるからです。それは自分で探した選択肢を自分で捨てたということなのですから。「あまのじゃく」というより「よくばり」と言ったところでしょうか。
読まないことを選ばなかった読者のみなさんの感謝をもって、本連載における私の最後の行動とさせていただきます。ありがとうございました。
Dan the Contributing Writer Thereof
わたしのブログ、"Bloga enneagramica"が、とうとうグーグル八分になってしまいました。どうも権力は私を恐れているみたいです。