内田樹発言の劣化がさらに進んでいるのは、個人的印象ばかりとは言い切れない。

ネット上の発言の劣化について (内田樹の研究室)
個人的印象だが、ネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。

以下の通り本人も認めているから、というのは冗句であるが…

「オレはこう思う。」とか「オレはこれを知っている。」といったタイプの情報は、そのコンテンツの正否にかかわらず「質の悪い情報」である。

スルーしようとも思ったのだが、そうし難い質(「しつ」より「たち」)の悪さがこの発言にはあるので、1 entryを割く事にする。

何が質が悪いかというと、「情報の質」というのは誰が決めるかを、180度勘違いしていること。

発信者、ではない。

受信者、なのである。

もし発信者に情報の質を決められるのだとしたら、Van Goghも自傷のあげく自殺するはめにもならなかっただろう。彼の絵に今何百億円もの「価格」がついているのを知ったら、彼はどんな感想をいだいたのだろうか。

おそらく今日もネットでは中韓に対する罵詈雑言が飛び交い、その数倍の日本に対する罵詈雑言が中韓では飛び交っているのだろう、しかしそのほとんどは、お互いスルーされる。そこに罵詈雑言をぶつけている人のほとんどは、お互いの言葉すら知らないから。そもそも互いに受信能力がないのである。

大事なことなので繰り返す。

情報の質は、発信者が生み出すのではない。

受信者が--勝手に--見い出すのである。

昔も、今も、これからも。

そのことを我々もある程度はわかっているから、受信者がどのように受け取るかをある程度見越して発言する。しかしそれを繰り返して行くうちに、発信者は受信者のことをわかって当然という思い込みも積もって行く。これはもしかすると、表現という行為に関する最も典型的な老化現象かもしれない。

その頃の日本人は子どもも大人も、男も女も、知識人も労働者も、「だいたい同じような情報」を共有することができた。

その「だいたい同じような情報」を誰が流していたかを考慮すれば、なおのこと。

「情報の質は、発信者が決める」と発信者が思い込むのも無理はない。

しかしそれは「楽しい」誤解、すなわち「娯解」でしかない。

不特定多数に向け情報を発信してきた人々は、彼らに対する「呪い」を通してそのことを知っているはずである。知って知らないふりをしている人の方が昔も今も多いが。しかし仮にも言論の自由を標榜するからには、このたった一つしかない原則を知らないふりをしてはならないはずである。

言論の自由には「言論の自由の場の尊厳を踏みにじる自由」「呪詛する自由」は含まれないと私は思う。

あえて相手にその自由を認めるものだけが、自らも自由に言論を行使する資格を有するはずだ。もっと平たい言葉で言えば、「言いたい事を言わせる者だけが、言いたい事を言えるのだ」ということ。

そもそも「言論の自由の場」なるものに人格がない以上、踏みにじられるべき尊厳もないというのが私の見方だ。尊厳を有するのはあくまで発信者であり受信者。そして人格がないという点においては匿名者も同じ。自ら人格を放棄している以上彼らに尊厳はないし、尊厳なきものに傷つけられるべき尊厳を私は持たない。

どうせ悪口を言うんだったら、私としては匿名で言ってもらいたいものだ。それならニュートリノとおなじで、いくら被曝したところで影響はないのだし。

Dan the Free Expressionist