訃報をヴェトナムで知った。

本当だった http://bit.ly/nOHpgH 亡くなった事実より写真の痩せた姿に途惑う< 小松左京が亡くなったって本当ですか?less than a minute ago via TwitBird Favorite Retweet Reply

すぐにentryを起こそうとしたが、著者の作品はおろか本を一冊も持たずに来た異国で作品を「暗読」しまくりはじめてしまいそれどころではなかった。日灼けが日焼けとなった今頃、やっと少しは落ち着いて何かを書ける気がした。

著者逝去そのものは、冷静に受け止められた。著者のトレードマークでもあった恰幅が晩年消えてしまったことが気がかりではあったが、享年80歳というのはわずかながら日本人男性の平均を上回る。

「地には平和を」「復活の日」「日本アパッチ族」「エスパイ」「果しなき流れの果に」「空中都市008」「青ひげと鬼」「日本沈没」「ゴルディアスの結び目」「さよならジュピター」…中坊、といっても学校にほとんど通っていなかったあの頃、一体どれくらいむさぼり読みまくったのだろう…それから四半世紀を経た今なお暗読できる程度には、少なくとも。

そしてその過程で、一つ気がついた。

物語の流れはこれほどくっきり覚えているのに、登場人物の名前を殆ど覚えていないのである。「復活の日」のヨシズミぐらいか。それを覚えているのも、原作よりむしろ映画のおかげ。映画では彼は主人公であるが、原作では数ある登場人物の一人に過ぎない。

自らの記憶力の欠如の言い訳抜きで、それは、小松左京作品の特徴の反映ではなかろうか。

つまり、小松作品において、主人公は人ではないのである。

そこにおいて、人は「主人公の構成要素」、つまり主人公の「細胞」なのである。

そこにおける主人公、それは「日本人」であったり「人類」であったり「宇宙そのもの」であったり…群像劇というのとも違う。とにかく「人」より一回り大きな何かを主人公にしてなお等身大の人に読ませるという点こそ小松作品を小松作品たらしめるスケールの大きさなのだと思う。

単に設定であれば、小松作品より大きな作品はSFの世界にいくらでもある。しかし設定は大きくとも、「主人公」のスケールの大きさにおいて小松作品に比肩しうる作家に私は未だ巡り会えていない。

晩年のエッセイ、「SF魂」で著者はこう述べている。

SFとは文学の中の文学である。

著者にとってSFと文学の関係は、人類と人の関係だったのかも知れない。ヒトが「ただの60兆個のヒト細胞の集まり」でないのと同様、人類もまた「単なる70億の人の集まり」ではない。この二つがどう異なるか?小松作品を読むに限る。

そしてもう一つの特徴は、戦争。「戦争を知らない子供たち」という歌がある。私にとってすらこれは一世代上の歌であるのだが、私にとって著者は「戦争を知っている大人」だった。「SF魂」で、著者は述懐している。

僕はSFに出会うことで、自分の中にあった「戦争」にひとまずケリをつけることができた。逆に言えば、僕にとって戦中戦後の経験はそれだけ大きかったということ。あの戦争がなかったら、おそらく僕はSF作家にはなっていない。

戦争。これもまた「人類」と「人」の違いである。個々の人がどれほど人を傷つけ殺めることを忌諱しているかは「戦争における「人殺し」の心理学」に詳しいが、それが「人々」となったとたんなぜ…

そのあたりが一番読みやすくまとまったのが、「継ぐのは誰か?」だと思う。これは「現人類」と「新人類」の物語なのだが、どちらの側も聡明で善意に満ちあふれた人々が、争いを避けようと懸命の努力をする物語でもある。その結末は、驚きと悲しみに満ちている。その善意こそが破滅の引き金だったとは…

その破滅っぷりの描写の容赦のなさもまた、小松作品の醍醐味である。「復活の日」に至っては、「人類を二度殺して」いる。一度はウィルスで。そしてもう一度は核兵器で…「復活の日」の破滅描写がフォルティシモだとすると、「継ぐのは誰か?」の描写はピアニッシモ。しかし容赦のなさという点において、両者は通底している。

それでも一縷の希望を残すのが、小松作品の甘さであり優しさなのかも知れない。世界を「復旧」させるほど甘くはない。しかし世界を「諦めて」しまうのはしのびない…

これか?「魔法少女まどか☆マギカ」に感じたデジャヴの正体は。

話を元に戻す。著者が新作を出さなくなったのが冷戦終結とほぼ重なるのも、それが一因なのだと私は下種として勘繰っている。あの頃の「いつどこに行ってもつきまとう破滅の雲」が頭上に常にある感覚を、知らない人に説明するのは難しいが、小松作品を読めば「冷戦を知らない子供たち」も実感までは行かなくとも理解はしてもらえるのではなかろうか。

小松作品を「時代を超えた大作」と評する人は多い。私はそれに100%賛成し、120%反対する。

小松作品は、時代を引きずっているからこそ時代を超えているのだから。

そして、
SFとは希望である--と

希望の何たるかを私がいくばくかでも知っているのだとしたら、それは小松作品を通してである。私にとって小松作品がいなかった時空は、「地には平和を」の日本の未来も同様だ。

ありがとう、ございました。

Dan the Fan Thereof