出版社より献本御礼。
添え状より判決は来年3月、これまでこうした手記の出版は判決に不利になるからと、判決後に出すのが普通でした。公判が続く中での被告の手記の出版という意味でも極めて異例
こういうのも何だけど、著者は本書の上梓を判決後まで待つべきだったと思わずにはいられなかった。
問うに落ちず語るに落ちるとは、まさに著者のことではないか。
本書「勾留百二十日 特捜部長はなぜ逮捕されたか」の著者は、大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件の大坪弘道被告。
P. 22私の運命の暗転はこの一日の電話から始まった。
敬老の日の語と、自宅に元部下の國井弘樹検事から驚愕すべき電話が入った。
「次席、じつは朝日新聞記者が例のフロッピーの件をつかんだようで、検事正に当ててきたそうです。それで今日、検事正が前田検事から直接事情を聴いてます。前田検事に代わって私から連絡しました」
例の件。例の件。例の件。
著者の罪状は、証拠隠滅罪・犯人隠避罪。
著者は本書でこう反論している。
P. 23そもそも前田検事のようなベテラン検事が証拠物そのものに手を加えるなどということが信じ難いことであった上、彼が問題のフロッピーディスク内に入っていた証明書の更新日時データは捜査時に証拠化されていたいたことから後で原本のデータだけ変えても意味がないことを考慮し、私は前田検事の説明を信じた。そして、彼の取り扱い上のミスでフロッピーディスク内のデータが変わった可能性があると判断し、上司に報告して了承を得たという経緯があった。
要するに監督責任はあるが、故意に証拠を隠滅したわけではない、というわけである。
しかし事故であれ事件であれ、証拠品を検察の手で改変しまった事実は少なくとも知っていたわけである。そしてそれが「例の件」で通じる程度には重大な失態であることも。
私は法律のプロでもなんでもないので、証拠隠滅罪・犯人隠避罪で立件するのにどのような証拠が必要かはわからない。ましてやそれが適切な罪名かまでは。しかし障害者郵便制度悪用事件にあたってこのような重大な証拠改変があったにも関わらず起訴を取り下げなかっただけでも充分に刑事罰に相当するのではないか。
しかしそれよりも驚きなのが、本書を貫く物証軽視、心証重視の姿勢。
P. 230いかに科学的立証の必要性が解かれようとも、DNAや遺留指紋によって立証しうるのは彼が犯人かどうかだけである。DNAや指紋はそれ以上のことを語らない。彼がどういう動機で、どのような悪意をもって、どのような方法で被害者を殺害したのか。彼が責任回避のため述べる種々の弁解が真実なのか否かは本人の自白によって初めて明らかにされる。自白なくして事案全容解明はありえない。
百二十日の勾留は、この著者の姿勢に少しも影響を与えなかったようだ。それどころか、著者はこう続ける。
…どのように心底から悔い改めたように見える被疑者であっても、全ての真実は言わない。人は決定的に嘘をつく。そこから何が虚偽で、何が語られていないかを見抜く能力をもたねばならない。
著者はこの言葉を、自分自身に当てはめてみたことはあるのだろうか。
決定的につかれた嘘の中には、被疑者に不利で検察に有利なものだってあるのは足利事件を思い起こすまでもない。いや、本書読了後は自白というのはつまるところ検察のために被疑者がついてきた嘘に過ぎないのではとすら思える。
しかし驚くを通り越して呆れ、しかし飽きれてはならないのは、著者、いや検事というもの立件という行為を勝負事としてとらえていうこと。
P. 292この[村上厚子氏の]手記は昨年末に差し入れられたが、今の私にはそれを読むのが辛く、積み上げられた本の間に挟んだまま、目を通せずにいた。
理由が如何にあれ、私が精魂傾け指揮した事件に無罪の審判が下った。私は戦いに破れたのである。
指揮官であった私がこの境遇にあって、破れた戦いの過程を相手の書き物によって振り返らされることは辛い作業であった。
そげぶ。
およそすべての刑事は、その出発点において敗戦であり、ゆえに検事の仕事とは敗戦処理なのではないか?
裁判に勝ったところで、被害者が失ったものは取り返しようがないのだから。
当局の真の仕事は、まだ被害者となっていない人々がこれから被害者となることを防ぐことにこそあるのではなかったのか?
404 Blog Not Found:News - 元少年に死刑判決 - 死刑の是非の前に問いたい是非その代わりに我々が選んだのは、宇宙がくれた殺しのライセンスを、国に預かってもらうことだった。自らは殺しを放棄する代わりに、国は人々に代わって殺しを防ぎ、殺した者を処罰する。そして、人々はその費用を税金の形で負担する。「国は小さければ小さいほどよい」と言っている人々ですら、「暴力の預託先」としての国は必要だと言っている。
このやり方は、「個別警備」よりずっと賢明だ。防犯も逮捕も処罰も、個人ではなく組織で行うことができる。個人に比べて組織がどれほど有能で効率的かは、国を持ち出さなくとも我々はよく知っている。国という最大の組織に、最凶の仕事を預託するというのは実に理にかなっている。
勝訴を目指すのは、あくまでその過程であり目的ではないはずだ。
だから刑事裁判という「戦闘」で常勝だった検察は、法治という「戦争」で負けつつあるのだ。
もし証拠改変--ここでは改ざんとはあえていわない--の時点で、その旨を弁護側に伝えて本件を取り下げていたらどうなったか?村木氏の勾留はより短くなり、検察も組織的危機に陥ることは避けられたのではないか。
404 Blog Not Found:無謬性が生む誤謬「失敗を許さない」という姿勢は、このように組織を小さく硬く脆くしてしまう。この無謬性が生む誤謬を発見したことが、近代における民主主義の成功をもたらしたのではないか?それ以前にも民主主義は存在したのだが、それは「無謬性の否定装置」としてではなく単なる「利害関係の調整装置」として使われていた。靭やかさの視点が欠けていたのだ。
私の生年からずっと放映しつづけていた水戸黄門が先日最終回を迎えたそうだ。
自らに疑いを向けず、また自らを監督するものが誰もいないという点で、検察は黄門様ご一行でもある。「下々」また検察に「天下の副将軍」であることを求めてきた。そういうのは互いに終わりにするべきだろう。
少なくとも印籠を見せつけられたら、問い返すべきである。
「それが本物である証拠を出してください」、と。
Dan the Man to Err


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