角川書店岸山様より献本御礼。

日本語で「感動」というように、英語でも"moving"という。

あえてmoveすることを選ばなかった二人の王が、もっとも読者をmoveするというのはなんというパラドックスであろうか。

私が日本からmoveすることを選んだ四半世紀前ではなく、今本書に出会えたことに感謝する。当時の私にこの(みちび)きを受け入れられるはずはなかったから。

本書「黄金の王 白銀の王」は、虚構である。「この物語はフィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです」的な意味で。しかしどうしてだろう。いかなる事実の列挙より虚構の方が、上手に読者を真実へと(みちび)いてくれるのは。

カバー背より
二人は仇同士であった。二人は義兄弟であった。そして、二人は囚われの王と統べる王であった――。翠の国は百数十年、鳳穐(ほうしゅう)旺廈 (おうか)という二つの氏族が覇権を争い、現在は鳳穐の頭領、(ひづち)が治めていた。ある日、穭は幽閉して来た旺廈の頭領、薫衣(くのえ)と対面する。生まれた時から「敵を殺したい」という欲求を植え付けられてきた二人の王。彼らが選んだのは最も困難な道、「共闘」だった。

小谷真理の解説ではモンターギュ家とキャピュレット家に両氏を例えていたが、しかし穭と薫衣はロミオとジュリエットの対局にある。二人を結びつけるのは愛ではなく殺意。穭の居城、四隅蓋城はかつて薫衣が生まれ育った場所で、しかし穭にしてみれば旺廈に奪われたそこを父の代で奪回したに過ぎない。互いを滅ぼせと遺言された二人がそれを反故にしてまで共闘を選んだ理由は、愛ではありえない。

それが、翠の国を救うたった一つの冴えたやり方だったからだ。

翠の国は、まるで源平合戦のさなかに元寇がやってくるような危機的な状況にあった。両氏の争いで疲弊した国に、外敵を退ける国力は残っていなかった。そういえば源頼朝を婿にした北条時政も平家だったっけ。

時政は娘政子を頼朝に与えたが、穭が薫衣に与えたのは妹稲積(にお)だった。彼女には斑雪(はだれ)という、一度は兄も許した交際相手がいたのだが、「稲積様、私の心は砕けそうです。どうか、いっしょに逃げてください」とのたまった斑雪への彼女の返事がまた凄まじい。

「無理です。死ぬことも、逃げることも許されません。私は、鳳穐の頭領の妹です。生きながらにして持っている務めがあるのです。たとえ心が砕けようとも、私は私の務めを果たします。お兄様のご命令とあらば、私は、しっぽの生えた猿とでも、結婚してみせますわ」

そのしっぽの生えた猿であるところの薫衣は、この時まだ17才の稲積よりさらに2才下の15才。元服という文字通り、旺廈としての正装と紋を見にまとい、正々堂々と四隅蓋城を訪れてそこで旺廈として果てることしか頭になかった子供を王に目覚めさせたのは、住民にひそんで暮らしていた名もなき旺廈の残党であった。薫衣の晴れ姿に我慢ならなくなった彼は、「頭領さまあ」と叫んだばかりにその場で切り捨てられる。

穭はこれを薫衣に突きつける。

「殺さないわけにいかなかった。あの男も、そうなるとわかっていても、そなたを読んだ。そなたの勇姿にがまんできなくなったんだろうな。身元を隠し、平穏に暮らしていた男が、薫衣殿、そなたの愚行にあぶり出されて、意味もなく命を落とした。そなたの務めは、あの男を守ることだったはずなのに」

かくして薫衣は、王となった。王として死ぬことではなく王として囚われのまま生きることを選んだ。

しかし本書が耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ滅私奉公の物語だったとしたら、本書をひもとくより事実の列挙たる史実にあたった方がよほど面白くてためになるだろう。本書の醍醐味は、滅私から生じた奉公が、私となり、理から生じた結論が愛となっていくところにある。囚人だった薫衣が、穭をも上回る王才を示すようになるように。稲積と薫衣が本当の夫婦になっていくように。

しかし囚われの身ということであれば、穭の囚われぶりは薫衣をも上回る。薫衣は穭という王に囚われた王であるが、穭は翠という国に囚われた王。その穭に一生囚人であることを決意させたのはなんだったのか?薫衣は穭に殺さぬ理由を、先祖代々の墓所でこう語る。

〈殺せ〉という思いは、私の外からやってきた。旺廈との戦で死んだ多く一族の者たちが耳元でそう叫び、いま生きている者たちの、親兄弟の恨みを晴らしたいという願いにとりつき、けしかけるのだ。
〈殺したい〉という思いは、私の肉からやってきた。あそこに横たわっておられる方々と、ご遺体が見つからず、または損傷激しくて、ここにおられない方々の御代。そのすべてを通して我が家系には、旺廈を滅ぼしたいという欲求が刻まれていった。私はこの肉に、はっきりとそれを感じる。
〈殺すべきではない〉と唱えるのは、私の頭だ。そなたを殺せば、旺廈は明白な中心を失う。動きがつかみにくくなるだけで、益のないこと。そう損得を主張しての主張だ。

そして、こう続ける。

だが〈殺したくない〉がどこから来るのか、私にはわからなかった。

わからぬまま、穭は〈殺すべきではない〉を貫き通す。〈殺したくない〉はずの身内と見方を殺しつづけてまで。最大の敵と手を結ぶというのは、最大の味方たちを敵に回すことことでもあるのだ。〈殺すべきではない〉だけで、そうし続けられるのだろうか。

その答えこそ、本書の最もmovingなところだ。

イツハク・ラビンはどうだったのだろう。本書を読了して真っ先に頭をよぎったのはこの人だった。この人のことを思うと、本書の結末が救いに思えてくる。誰か本書をアラビア語とヘブライ語に訳さないか。もちろん〈殺せ〉と〈殺したい〉で埋め尽くされている英語も。

王であるということは、今日の自分より明日の子のために生き、そして死ぬということである。その意味で現代は王なき時代であり、王が必要とされない時代に生まれたことを私は幸運に思わずにはいられない。支配者に異をとなえた程度で殺められることもないし、そして王には許されない、王国から逃げるという選択肢をいつでも行使できるのだから。

しかし我々の魂もまたそれぞれの体の永遠の虜囚であるという意味で我々は薫衣であり、そして死がある以上、いつまでも今日の自分のために生きることはかなわぬという意味で我々は穭でもある。

今もなお我々は誰かの王となりうるのだ。

自分自身を、含めて。

そんな王達に捧げるべき本書以上の廸書の名を、私はまだ知らない。

Dan the King of His Own Kingdom