出版社より献本御礼。
2012.01.26 初出 2013.01.12 文庫化につき更新。 本entryがオビに採用されております
あやうく騙されるところだった。
オビと私自身の常識、いや偏見に。
「社会科学は科学とは言えない」という偏見に。
本書「偶然の科学」を、数ある「常識を疑え系」の一冊として読むことは当然可能だ。そう読んだとしても本書の元は確かにとれる。
オビより
- アップルの復活劇は、ジョブズが偉大だったこととは必ずしも関係がない。
- VHS対ベータ戦争で敗れたのも、MDの失敗も、ソニーの戦略ミスではない。
- 給料を上げても、社員の生産性はかならずしも上がらない。
- JFK暗殺も9・11も、可能性が多すぎて、事前の予測は不可能。
- 歴史は繰り返さない。したがって歴史から教訓を得ることはできない。
- フェイスブックやツイッターの大流行は、人々のプライバシー観が変わったからではない。
- ヒット商品に不可欠とされる「インフルエンサー」は、偶然に決まるため特定できないし、実のところ彼らの影響力も未知数である。
- 売れ行き予測を立てないアパレルブランド、ZARA。その成功の秘訣とは?
- 偶然による過失をめぐる倫理的難問。司法はどう裁くべきか?
しかしそれでは本書を読んだことにはならない。それでは著者は読者に詫びなければならないことになる。それはあまりにも忍びない。
まえがき社会学者の考え方を学ぶのは、物事の仕組みについてのおのれの直感そのものを疑い、場合によってはそれらを完全に捨ててしまうことを学ぶに等しい。だから、この本を読んでも、皆さんが世界についてもう知っていることを再確認する役にしか経たなかったのなら。お詫びする。わたしは自分のつとめを果たせなかったのだから。
本書の原題は"Everything is Obvious* Once You Know the Answer" 「全ては自明--あらかじめ答えを知っているなら」というのは、対偶をとれば "Till you know the answer, nothing is obvious" 、「答えが分からぬうちは、自明なものなどなにもない」となる。
それでは自明ならざるものとはなにか。
人間、つまり社会である。
それを明らかにしていこと、つまり"Science"は、"Social Science"、「社会科学」と呼ぶほかない。
しかし社会科学ほど、非科学的として蔑視されているものも他にないのである。自然科学を学んだものであればなおのこと。もちろん私にも、大いにそういう気持ちはある。
経済学者って信用ならんと感じた最初のきっかけは、WとWhを平気で混同していたのを見た時。それも何度も techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN…
— Dan Kogai (@dankogai) January 25, 2012
著者はその状況を、まずまえがきで詫びている。
まえがき - ある社会学者の謝罪社会科学の有用性に疑いの目を向けている人は、少なくない。私も物理学者から社会学者に転身してからというもの、聡明な人物が頭を働かせても解明できなかった世界の問題について社会学は何を語ってくれるのかと、好奇心あふれる部外者から何度も尋ねられた。
しかし、すごいのはここからだ。
だが悲しむべきことに、われわれは経済を運営したりふたつの企業を合併させたり本の売れ行きを予測してたりするよりも、惑星間ロケットの航路を計画するほうがはるかにうまい。それならどうして、ロケット科学はむずかしすぎるように見え、それよりずっとむずかしいと言ってもいい、人間にかかわる問題は単なる常識の問題であるかのように見えるのか。
著者は行間で檄を飛ばしているのである。
「自然科学者達よ、おまえらこそ自分たちにどうにか解ける問題だけ選んで解いているだけの、真に解くべき問題から目を背ける常識の虜囚ではないか」、と。
オビにあるのは、その例題にすぎない。
「社会科学を科学(笑)から本物の科学」にしてみせるという、「社会学党宣言」こそ、本書のコアなのだ。
「はじめに」にあるように、著者は物理学者から社会学に入った。著者を「科学者のなりそこない」ということはこの点で出来ない。そして著者は物理学的に社会を観測することによって、スモールワールド現象を解明した。でもそれはほんのはじまりにすぎない。社会科学が自然科学と同等の科学として常識されるには。
しかしそのためには、社会科学が自然科学と同等に役に立つところを見せなければならない。それが著者を突き動かす力。どうしてニュートン力学で乗物を設計するように、社会という乗物を我々は設計できないのか。
しかしニュートンは社会も何もないところから登場したわけではない。そこに至る前にティコ・ブラーエがいて、コペルニクスがいて、ケプラーがいたのだ。
そう。観測。社会科学に決定的に欠けていたのは、自然科学における最初の一歩だった。だから「たまたま」その学者が目にした現象を「たまたま」その学者が持っている「常識と偏見で料理したもの」が「学説」として流通する。そんな連中をソーカルのように揶揄するのは安価で愉快なことだけど、そろそろそんなことより観測-仮説-立証サイクルを回そうぜ、インターネットのおかげで観測が可能になったのだから。著者はそうシャウトしつつ本書を〆ている。
あとがきなぜ都市部の貧困や経済発展や公教育といった社会問題の理解に必要な科学が、注目に値しないことになるのか。もっと注目に値するはずだ。必要なツールがないと言い張ることももうできない。望遠鏡の発明が天空の研究に革命をもたらしたように、携帯電話やウェブやインターネットを介したコミュニケーションなどの技術革命も、測定不能なものを測定可能にすることで、われわれの自分自身についての理解や交流の仕方革命をもたらす力がある。
マートンのことばは正しい。社会科学はいまだに自分たちのケプラーを見いだしていない。しかし、アレグザンダー・ポープが人間の適切な研究課題は天上ではなくわれわれの中にあると説いてから三〇〇年後、われわれはようやく自分たちの望遠鏡を手に入れたのである。
「さあ、革命をはじめるとしよう…」。革命家ならぬ一読書家として、せめて本書をおすすめする次第。
Dan the Island in the Net
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