やっと入手できた。

と思ったら「通常1~3週間以内に発送します」ですか。[Amazon仕事しろ]。

にしても、なんという[才能の無駄遣い]。

この題名では、まるでパンツを飛ばす片手間で書いているようではないか。[もっと評価されるべき]、王道Sci-Fiにして現時点における著者の最高傑作なのにっ。

しかし、それこそ尻Pの醍醐味なのだ。それを著者に求めるのは、「Hunter x Hunter休載するな」というに等しい無理ゲーなのだから。

本作「南極点のピアピア動画」は、宇宙開発および異星人とのファーストコンタクトを扱ったハードコア・サイエンス・フィクション。そうであることは目次からも疑いようがない。

目次
南極点のピアピア動画
コンビニエンスなピアピア動画
歌う潜水艦とピアピア動画
星間文明とピアピア動画
解説/川上量生

にも関わらず本作のノリが徹頭徹尾軽いのは、著者が徹頭徹尾「重さ」というものを軽蔑しているから。なんて cool な contempt。

いや、勘違いしないでほしい。軽蔑というのは無視ではないのだ。この二つを混同している人はあまりに多いのだけど、徹底的な「理解」と定量的な「計測」なきところに軽蔑はありえない。私の記憶が確かなら、昔ナムコは「重いカルチャーを、オモチャーと呼ぶ」というCMを流していたのだけど、真の軽蔑とはオモチャーの域に達したカルチャーなのだ。

解説の川上がそこをきちんと汲み取っているのは、両者のファンとして[これは喜ばしい]タグをつけざるを得ない。

オビより
そもそも野尻さんがきちんとしたSF作家だったらというのは驚きだった。

いや、もう一歩踏み込んで、著者はもう「きちんとした」という言葉が褒め言葉ではなくった世界を生きていると見なすべきだろう。いやあ、これが書かれている時期にパンツが飛んでなくてよかったよ。飛んでたらとても作品なんて書いてる暇なかったはずだから。

しかし、そういう世界あってのこういう著者なのだ。

SFがあって、ネットがあって、ニコ動がある。

コツさえつかめば、「働かなく」ても「食って行ける」。

野尻作品というのは、そんな世界への賛美歌なのだ。

そう。歌。本作にはニコニコ動画に上がっている歌もそのまま登場する。目次に貼ってあるので読みながら視聴していただくとして、「そのまま登場する」のは、動画だけではない。「この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません」という「目にタコ」なdisclaimerがあるが、もはやそれが使えないレベル。本作とある意味同根の「アッチェレランド」も前半はやたら実在の団体が登場する一作だったが、本書のレベルはもはや「現実とのマッシュアップ」と呼ぶしかないレベル。非実在人物や非実在団体ですら、「ピアピア動画」に「ハミマ」、「山上」に「小柴」に「三塚」と「一切関係ありません」なわけないレベルだし、ましてや"GPL"だの"iPhone"だのという、物語の進行上実在のままで構わないものはそのまま使っている。どころか実在人物まで。なんとけしからんw

そうしている理由は、二つほど思いつく。一つは、「野尻節」の根底を成す、「無駄口の少なさ」。「類書」であれば、文庫でわずか300ページというのはありえない。

404 Blog Not Found:書評 - 太陽の簒奪者 & 沈黙のフライバイ
一般向け作品においては丁寧になされる「前提」を、野尻作品ではばっさり切ってしまっているのである。

最も簡単に使える「前提」とは、現実そのものではないか。これをSFという、現実乖離度が作品としての最重要価値を有するジャンルでやってのける点でなんとも「酷」(ここでは中国語のcoolの意)ではないか。

しかし今回それ以上に重要なのは、野尻作品を読み取るのに必要な文脈が、「歴代のSF作品」から「現代のネット文化」となったことで、読者の敷居が一挙に下がったこと。

しかし、なぜこれだけ読者を突き放せるかという理由を考えると、日本のSF界の豊穣さに必ず行き渡る。これだけ読者を突き放しても、本として成立するだけの市場がそこにあるのだ。野尻も凄いが、野尻を受け止められる日本のSF界はもっと凄いのでないか。

突き放す、というより、楽しませつつ甘やかさない。

まるで小隅レイの姿で人類の前に姿を現した、あーやのように。

そう。小隅レイ。この名を持ち出されては、古き佳き姦しき古株のSFファンもうなづくしかない。

それでも本書の最大の魅力は、[プロの犯行]である以上に[野生の作品]であること。ここで言う野生には二通りの意味を込めてある。

一つは、「自然のまま」ということ。本書で一番自然に感じたのは、異星の知的生命体であるあーやと人類の交流がどのように進んでいくのか。これが何とも伊達で酔狂で、泥縄なのだ。古典的SFであれば、これは「進んでいく」のではなく「進められていく」。まず「想定問答集」を作成して、選りすぐりの善男善女を「大使」として派遣する…

しかし本当に歴史が変わる瞬間は、そんな風には進まないんだよね。いつだって想定外の事件が先に起きて、人々はそれに何とかついていくうちに、それが板について、日常となっていく。ネットだって、ニコ動だって、ヴォーカロイドだってそうやって進んできたでしょ?

もう一つは、「非プロ的」ということ。[野生の~]というタグは、「プロの作った作品であってもおかしくないほどきちんと作られた一般人による作品」の意でつけられるのだが、プロというのは「家畜化」ならぬ「社畜化」した生き物である。作家は社員ではないけれども、「コンテント・デリバリー・エコシステムの一員」という意味において野生ではない。そこでは「一定品質」以上に「一定時間内」という制約が加わり、それをクリアできないものはプロとして失格の烙印が押されるようになって幾星霜…

しかしごく最近になって、この風向きが変わって来た。最も象徴的なのは、冨樫義博にあの週刊少年ジャンプ編集部が手も足も出なかった「事件」だろう。本書の解説でも著者が冨樫にたとえられていたが、それをたとえていた人が、ニコニコ動画というエコシステムの元締めだというのが絶妙だ。

解説
なぜ野尻さんのSFがそう明るくなるのか?それはピアピア動画にかかわるひとたちが徹底的にどうでもいいこと、訳に立たないことに執念をもやすひとたちだからだ。お金を儲ける、情報をうまく処理する、正しい答えをみつける、そういう役に立つことはやがてコンピュータのほうが人間よりも上手くできるようになるにちがいない でも、これらの遠い未来にどれだけ科学が発達していたとしても、役に立たないことを一生懸命にやる世界が残っていればそこには人間の幸せな居場所があるにちがいない。野尻さんはそう信じているように思うのだ。

だから言ったじゃん。「働かざるもの、飢えるべからず。」って。

「野尻さん」は、そう信じているにとどまらず、それを実践して生きている。

まさに、野生ではないか。

サファリパーク的な「絵に書いたような野生」ではなく、クルマにクルミを轢かせて割るカラスのような、「人工」をも含んだ本物の野生。ありがたいことにこちらの野生はポリネシアのオオコウモリのように食われ尽くして絶滅したりなんて絶対しない。いくら食っても減らない本作に手をつけずして自己啓発書に付箋を貼りまくってるなんて、それこそ[読書の無駄遣い]だと弾言させていただく。

Dan the NEET in the Wild