まさかの献本御礼。

神林長平の本が献本される日が来るとは。

狐と踊りそうになりつつ読了。

ああ、なんてこった。

これ、空前にしておそらく絶後の私小説ではないか。

なぜ我々はフィクションを必要としているのか。

ノンフィクションに打ちのめされた全ての人が、携えるべき矢がここにある。

本書「いま集合的無意識を、」は、表題作を含む六編を収録した短編集。どの作品も「ぶれねぇ」「安定の」神林節であるが、表題作のみは、神林長平のカの事も知らない人でも、およそフィクション作家であれば避けては通れない。いや、およそ日本語で虚構する人で、神林作品をひも解かざるを得ない人など、語るに足りる虚構力のない私になど想像も出来ないのだけど。

背表紙
30年以上SFを書いてきたぼくは、第一線をはなれたような気分になっていた―ベテラン作家が、伊藤計劃『ハーモニー』と3・11後のフィクションの可能性を考察する表題作

しかしこれ、エッセイや論考ではないのだ。

これをあくまで物語として書くことが、言葉使い師の面目であり矜持なのである。

しかしその言葉使い師すら、語り手を虚構せず「ぼく」自ら語る。

伊藤計劃と。それも、在りし日の彼ではなく、現実においては亡くなったはずの伊藤計劃と。

死せる計劃 、生ける長平を語らす。

それほどの力が、「ハーモニー」にはあったのだ。

404 Blog Not Found:hopelessly happy - 書評 - ハーモニー
「原著」であるJコレクション版が出てすぐ、著者は亡くなっている。享年34歳。しかしなんという皮肉だろう。本作の「最終」ぶりが、それを「早すぎる」ものと感じさせない。前作「虐殺器官」も夢も希望もない傑作だが、それでもまだ「続き」がありえた。本作には、続きがない。いや必要ない。
「幸福とは、夢も希望も必要ない状態である」というのが、本作の結論なのだから。

夢も希望も必要ないところに、虚構は必要ない。

「ハーモニー」は、物語の死の物語なのだ。

物語を殺した物語り、伊藤計劃。

今は亡き伊藤のなした物語は、しかし生きている。

読了したあなたの心の中に。私の心の中に、そして、著者の心の中に。

陳腐な物言いに申し訳がないが、しかし私にはそれ以外の台詞は思いつかない。なぜならそれはフィクションではないから。「ハーモニー」は虚構だけれども、「『ハーモニー』を心に抱いた我々」は虚構ではないのだ。

だからこそ、鎮めなければならない。

物語の死の一つの形を示した、伊藤計劃の死霊を。

そして千年に一度という大災厄を前にして、語るべき言葉を失ってしまった虚構家たちの生霊を。

神林長平以外の何人が、その役目を担えるのか。

「アローアゲイン」by 飛浩隆(本書収録)
 ふたたび問う。小説家とは、完璧に作動する呪いを作ることなのか。
 この問いに「否」と答える資格があるSF作家がただひとりいるとすれば、それは神林長平をおいて他にない。

本作をフィクションとみなすのであればネタバレは禁則事項であるが、本作はフィクションであると同時に311震災で傷つき失われた魂に手向けた鎮魂の書というノンフィクションであり、また伊藤計劃作品に立脚するという意味において「ハイパーフィクション」でもある。牧師が聖書から引用するのが赦されるという意味において、本作の引用もまた許されよう。

「ぼく」はなんと言ったのか。

「きみが伊藤計劃だというのならば、ではきみに言おうじゃないか。大丈夫だ、われわれが、ぼくが、書いてやる。少なくともぼくには、たとえば今回の震災で心理的打撃を受けたりしている若い作家たちに向けて、現実=リアルに屈するな、フィクション=虚構の力を信じろ、きみたちがやっていることはヒトが生きていく上でパン(とワイン)と同じように必要不可欠なものだと、叱咤激励する力はまだある。ヒトは、フィクションなしでは生きていけないんだ」

ああ、なんと儚く、なんと逞しいのだ、言葉使い師というものは。

404 Blog Not Found:書評 - 膚の下
創造は強さの誇示ではなく、弱さの克服なのだ。

あなたの魂に安らぎあれ」。今の世界にこれほど滲みる鎮魂の言葉を、私は知らない。しかし言葉使い師に、この言葉は向けられない。死と普遍に告別し、生と破格を選んだ、そのひとには。

だからせめてこう申し上げる。矢をつがえることすらままならず、せいぜいそれが出来る人に矢を配るしか能なき私は。

ご武運を。

Dan the Creature That Creates