出版社より献本御礼。

原著は本年1月25日発売だけど、邦訳の上梓のタイミングの方がむしろよかったのではないか。

Jobs の死後に iPhone 4S と New iPad という二大製品を成功裏に立ち上げ、そして17年ぶりに配当と自社株買いを発表したこのタイミングの方が。

  • Apple - Press Info - New iPad Tops Three Million
  • Apple - Press Info - Apple Announces Plans to Initiate Dividend and Share Repurchase Program
  • 本書「Inside Apple」の原著の副題は"How America's Most Admired and Secretive-company Really Works"、直訳すれば「全米一尊敬され機密に守られた会社はどのように動いているのか」となる。"How"、どのように、である。

    "Why It Became the Most Admired and Secretive Company"、「なぜ」、ではない。

    本書にはいかに同社が秘密主義的なのかに最も多くの紙幅が割かれている。そしてその秘密のうちの幾ばくかが、著者の丹念な取材の元で明らかにされている。

    しかし、同社の秘密のうち最大の秘密は、なぜ同社が秘密主義を貫いてきたか、ではなかろうか。

    その答えは実は誰もが知っている。があまりに明らかすぎて誰もが見落としている。著者も含めて。

    404 Blog Not Found:実は誰もが知っている「AppleがSonyになれた本当の理由」
    個人が利用する製品を個人に売り、買った本人から代価を得ているから。

    なぜこれが秘密主義につながるのか?

    「それが製品のためによいことだ」からだ。

    「それが製品のためによいことだ」。同書によると同社の会議は必ずこの言葉で締めくくられるのだそうだ。

    これでピンとこなければ、s/製品/作品/としてみるとよい。

    想像してみて欲しい。公開前の映画のプロットが、全て白日の元に曝されていたとしたら。

    映像や演技みたさにその映画を見に行く人はいるだろう。しかし知らなかった時の感動を、視聴者はもう得ることが出来ない。同社にとってリークは「犯人はヤス」と同義なのだ。

    しかしこの話には続きがある。一旦公開された映画の価値は何で決まるだろうか?

    それがどれだけ視聴者によって語り継がれるか、ではないか。Star WarsBladerunnerThe Matrix のように。

    重要なのは、社会の文脈と化することである。革新が必要なのは実はそこまでで、一旦そうなればむしろ続編の世界観は第一作を踏襲している方が望ましい。重要な役を演じる役者が変わったらむしろ視聴者は幻滅する。

    Appleはそのように製品を呈して来た。Jobsの生前も死後も。

    そして成功したシリーズにおいては続編の方がむしろ興行成績がよく、それが前作の需要を最喚起するように、 iPhone も 4 より 4S が、iPad も 2 より "New" が売れ、しかも前作が未だに売れている。

    秘密主義は、目的ではなく手段なのだ。

    しかし同社にこの手段が執れるのは、同社の製品がいずれもエンド・ユーザー・プロダクトだから。IntelやWindowsはそうは行かない。プロダクト・コンポーネントを売る以上、前もって次期製品を示さなければそれを組み込むユーザーが困ってしまう(Appleまで含めて!)。MicrosoftではなくWindowsと書いたのは、一応同社はZuneやXboxも手がけているから。

    率直に言って、任天堂やSCEがAppleと同様の手段を執らないのは不思議でならない。New iPadのデビューではNamco が Sky Gamblers をデモっていたが、Appleが同社に箝口令を敷けるのであれば任天堂やSCEも同様だろう。そうすれば全国のカレシもクリスマスに泣かずに済んだのに。

    同社にとって、秘密主義は目的ではなく手段。

    それがわかれば、少数の口が堅いジャーナリストたちに製品発表前に製品を体験させる同社の姿勢の軟化も理解できる。卑近ながら私の元に発売前の本が献本されてくるのと同じだ(本書を含め:-)。実は私自身、同社からその恩恵を受けたことがある。今はなきBSD Magazineの記事執筆のために、Xserveが貸与されたのだ。しかもNetBootに関して触れざるを得ないと伝えたら、クライアントとなるPowerbookまで一緒に。

    P. 85
    プロダクト・マーケティング担当の元幹部ロブ・シェーベンのことばを借りれば「アップルは、ユーザーの体験のことばかり考えている。収入の最大化は考えていない」のだ。

    それがわかれば、なぜ今まで配当も自社株買いもしてこなかったのか、そして今それを翻意したのかも見えてくる。Jobs在りし日であれば、「それはJobsがNoと言ったから」の一言で済んだ。彼にとってそれは「株主に賄賂を送る」ことであり、ユーザー体験には何ら寄与しない行為であるからだ。「韓信の股くぐり」ならぬ「Jobsの股くぐり」までしてMicrosoftから運転資金を引っ張って来た彼に、「金余ってるだろ」と面と向かって言える人は社外にも社内にもいなかっただろう。

    そのJobsは、もういない。そしていくらAppleに1000億ドルの現金があるといっても、5500億ドルの同社自身をMBOするにはとても足りない。そしてAppleはGoogleとは異なり、Class A株B株なんてものは存在しない。株主対策において Think Different する必要がなくなった今、「普通の会社」になることは「製品のためによいこと」なのだ。

    これで向こう三年は、「いつ配当するのか」「いくら配当するのか」という、ウザくも無視することが許されない質問に答える必要はなくなったのだ。

    著者は本書をこう結んでいる。

     アップルでは仕事のやり方がまるでちがい、それはマルハナバチのごとく働くことだと言われてきた。つまり、飛べるはずのないのに飛ぶのだ。アップルは前進するために、これからも飛びつづける。
     だが、なぜそんなことができるのかは、少しずつこの世の神秘ではなくなりつつある。

    しかし神秘が解明されるのと、神秘を自家薬籠中のものとすることは別問題でもある。

    天才であればいずれもそうであったように、Jobsも奇人であった。「製品にとってよい」とは言えない執心も少なくなかった。Apple は Jobs という礎を失ったと同時に、 Jobs という軛からも解き放たれたのだ。

    むしろ--真の競合他社は不在だが、それ故部分部分では数多い--競合他社にとって、Appleはむしろ攻略しがたい会社になったのではないか。Android勃興の責任のかなりの部分がJobsの脇の甘さにあったことを考えれば、同様の失点をむしろ冒しにくい会社と同社はなっていくのではないか。

    We believe technology, at its very best, it's invisible. when you're conscious only of what you're doing, not the device you're doing it with.

    この台詞をs/device/company/としたものが、同社が目指す明日であろう。

    同社が「退屈な企業」となっていくのは、その点において正しい。

    しかしそれがユーザーのためになるか否かは、常に注視を要する。記事をねつ造するごときは論外だが、建設的批判は常になされる必要がある。MobileMeにダメ出ししたWalt Mossbergのように。

    「Appleはユーザーを甘やかさない」とは「iCloudとクラウドメディアの夜明け」の弁だが、ユーザーもまたAppleを甘やかしてこなかった。この関係こそ、Jobsが遺した最大の正の遺産だと思う。同社がさらに栄えるのか衰えるのかは、結局のところそこにかかっているのではないか。

    Dan the User Thereof