出版社より献本御礼。
「限界シリーズ」の(おそらく)最終作にして、ついに献本いただいた。
シリーズ中最もテツガク的かつブンケー的な名前を冠せられた本書が、最もジツガク的かつリケー的な内容となっているのも、実に本シリーズらしい。パラドックス。それこそ、本三部作の存在意義なのだから。
本書「感性の限界」は、「理性の限界」「知性の限界」と続いた「限界三部作」を締めくくるにふさわしい力作。
目次 - 感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性 高橋昌一郎 講談社を増補- 序章 シンポジウム「感性の限界」開幕――結婚披露宴会場より
- 第一章 行為の限界
- 愛とは何か
- カーネマンの構造経済学
- 二重過程理論と不合理性
- 人間行為の限界と可能性
- 第二章 意志の限界
- 自由とは何か
- ドーキンスの生存機械論
- 進化と不自由性
- 人間意志の限界と可能性
- 第三章 存在の限界
- 死とは何か
- カミュの形而上学的反抗
- 意識と不条理性
- 人間存在の限界と可能性
- おわりに
- 参考文献
難しそうな名前はたくさん出てくるが、しかし理解が難しい本ではない。しかし応用、すなわち「限界をどう乗り越えるか」はやはり難しい。これぞ名著である。すぐに読めるのに、何度も読み返したくなる。でも読み返すのがちょっと怖い。
という第一作に対する評は、本三部作全体にも当てはまる。こういうフラクタルな構造といい、主題の簡潔さといい、副題の的確さといい、そして仮想シンポジウムという様式といい、なんてカッコいいのだ。
しかし最終作だけあって、「怖さ」は「ちょっと」ではなかった。なにしろ本書では自由意志の存在そのものが議題に上がっているのだ。
404 Blog Not Found:自由の反対は?我々は、明日の株価を予測できない一方で、百年後の日食をほぼ正確に予測できる。仮にある時点での宇宙の状態全てと、完璧な物理法則が手元にあったら、明日がどうなるのかはすべて予測が出来るのではないか?これを「ラプラスの悪魔」と呼ぶが、これに対しては少なくとも数学的には不完全性定理が、そして物理的には不確定性原理が、人がラプラスの悪魔になれないことの証明となっている。完璧な物理法則はとにかく、そのベースとなるべき完璧な数学定理を作る事はできないし、宇宙の状態を完璧に観測する事もできない。個人的には、この二つこそ20世紀最高の発見だと思う。
しかし、これらも決定論への完全な反証にはなっているようでなっていないのである。現時点でわかっている事は、「仮に宇宙が決定論的であったとしても、その決定を『盗み見る』ことはできない」ということであって、「はじめから決定していない」ことにはならないのだ。「明日どうなるのかはすでに決まっている。しかしそれを知る事は、明日が来るまで決してわからない」というのは二重に空しい。これでは明日の事を考えるのはアホもいいところではないか。自由というのは演技に過ぎないのだろうか。
しかし自由「に」考えるに当たって、自由「を」を考えることは避けられない。「最後にやるならこれだろう」という課題を、最後にやってくれた著者に感謝。
いま「感謝」と言ったが、この言葉一つとっても、自由意志というものが存在することが空気のように仮定された言葉だ。もし我々の世界が決定論的だったとしたら、著者は「ただ宇宙の初期設定に沿った結果として」本書を上梓しただけなのだし、それが私の元にとどいたのもやはり「その結果」ということになる。だとしたら感謝という行為など何の意味があるのだろう。
痛いことに、この宇宙の豊穣さも、そこに自由意志があることの証明には全くならない。むしろ我々は決定論的かつ豊穣な世界の例というのを年々積み重ねて来ている。その中でもコンウェイのライフゲームは特筆に値するだろう。「ライフゲイムの宇宙」が上梓された時点では仮説だった「ライフによるチューニングマシンの構築」は2002年になされている。ライフでライフを構築する実例は、ライフシミュレーターのデファクトスタンダードともなっているGollyについてくる。単純なルール、複雑な世界。しかしそれにも増して、決定的。最初のセルの配置で、全てが決まるのだ。
しかしこれまた、自由意志の反証にも全くなっていない。自由意志は自由否定から構築することだって可能だからだ。
404 Blog Not Found:NOのNOは脳 - 書評 - 単純な脳、複雑な「私」絶妙なのは、それが肯定ではなく否定によって成り立っていること。なんとネガティヴ?でも本当なんだからしょうがない。しかもよく考えれば、こちらの方が単純なこともわかる。肯定から否定を作ることはできないけど、否定からなら肯定を作り出せる。NANDもNORも、否定があるからこそそれだけで論理回路を設計できる。
本三部作が取り上げる三つの限界が、九つの「不」からなるのもそう考えて行けば実に腑に落ちる。不。それこそが、最後に残った道しるべなのだから。
哲学史家: たしかに「感性の限界」というわりには、美学や芸術学に関する話が出ませんでしたな。これまでのシンポジウムもそうでしたが、どうも司会の方針が、哲学に対して冷たかったように思えてきましたな……。
科学史家: いえいえ、立派な司会だったと思いますよ。それにあらゆる問題を追求しようとすると、すべて最先端の科学にぶつかるのですから仕方がないでしょう。
Bachelor of Science (科学学士)もいる。Master of Business Administration (経営修士)も。しかし博士はPhilosophiae Doctor、(哲学博士)しか存在しない。本三部作をひもとくと、やはりそれでいいのだと納得する。Philo+Sophia = 「愛知」のいきつくところは、結局のところ同じなのだから。
こういう本こそ常備しておくにふさわしい。あなたの本棚にも、是非。
三冊そろえて。
Dan the Sensibly Insensitive
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