出版社より献本御礼。

書評しそびれてそのままになっていた本書を読み返した理由は、このニュース。

河本氏が一体何に対して謝罪しなければならなかったのかもさることながら、なぜこれほど多くの人が河本氏とその一族を責め立てるのかを改めて確認したくなったから。

本書「人は感情によって進化した」の類書は少なくない。本blogでも"The Seven Deadly Sins"シリーズのうち、「怠惰を手に入れる方法」と「嫉妬の力で世界は動く」を以前紹介している。が、本書の特長は、「七つの大罪」全てを肯定的に評価していることにある。

目次
序章 「野生の心」と「文明の心」
第1章 恐怖と不安
第2章 怒りと罪悪感
第3章 愛情と友情
第4章 好きと嫌い
第5章 嫉妬と後悔
第6章 自己呈示欲と承認
第7章 楽しさと笑い
第8章 悲しみと希望
第9章 信奉と懐疑心

特記すべきなのは、「嫉妬の力で世界は動く」ですら否定的であった嫉妬と後悔にすら、肯定的な意味を見いだしていることだろう。嫉妬不感症の私は、それが故にずっと嫉妬の効用を考え、実例を探して来た。

もちろん今回の「事件」がそうだというつもりはない。嫉妬で皆が損をした、「嫉妬するべからず」の典型的な一例である。この事件自体に対する私の感想は、

ですでに120%代弁されているので、蛇足、いやムカデに足を足してヤスデにするがごときはやめよう。

しかし「起きていることはすべて正しい」という立場を取るのであれば、「皆が損をした」分の得がどこかにあるのではないかと勘ぐるのも、私にとっては自然な感情の流れである。

ここでもう一つの作品を読み返してみる事にする。「蜘蛛の糸」である。あらすじぐらいは覚えていると思ったら、私は一つ重大な読み落し、いや読み忘れ、いや読み違えをしていたことに気がついた。

蜘蛛の糸が、切れた理由である。

いつの魔に私は、それは血の池を脱しようとしていたカンダタを、他の罪人が引きずり下ろしたからだと作品を脳内改変していた。しかし実際は、他の罪人もカンダタの後を追って蜘蛛の糸をよじ上っていたのである。糸が切れたのは「自分の糸」だとカンダタが主張した瞬間。罪人たちが極楽に上り損ねた理由は、嫉妬ではなく強欲ゆえだったのだ。

しかし今の私には、むしろ私の脳内バージョンこそ、より起こりえる話に思える。少なくとも芥川版よりも「ハッピーエンド」であろう。カンダタ以外の罪人たちが、嫉妬心を満足したという意味では。

本書に話を戻そう。著者は集団内の嫉妬の理由を、利益配分に求めている。

P. 98
つまり嫉妬は、じぶんのところに来た可能性のあった利益が、他のところにまわってしまったときに、それをじぶんのところに呼び込む感情なのです。狩猟採集時代の小集団では、この感情に大きな意義がありました。集団で発生した利益が、嫉妬をする人のところに比較的多く配分されたはずだからです。

これは、私の仮説とも一致する。

404 Blog Not Found:メシウマってどんな味? - 書評 - 嫉妬の力で世界は動く
なぜなら、七罪のなかで唯一これが、社会的な感情だからだ。少なくとも、最も社会的ではある。傲慢、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲は一人でも成立するが、嫉妬には他者の存在が不可欠。「色欲はどうよ」という意見もありそうだが、相手がいなくても欲情であれば出来るではないか。

しかし現代では、あまりに多くの場合「誰得」、Lose-Loseな結果になりがちでもあるのは見てのとおり。

それではカンダタはどうするべきだったのだろうか?

仮に私がカンダタであれば、他の罪人と契約をこんな契約を交わしたかも知れない。「オレが昇ったら蜘蛛にもっと糸を下ろさせるから、それまで待っていてくれ」。しかしそれを罪人たちが鵜呑みにしたら、私は極楽に上がった途端ばっくれてしまうかも知れない。ところが罪人たちに嫉妬心があれば、私がばっくれることを防ぐための手段をなんとかして講じるだろう。ゲンスルーがそこにいたら、私に爆弾をしかけるとか。もちろん私は除念師を忘れずに手配しなければならないが、嫉妬心の欠落に由来する猜疑心の由来により私がそれを怠って「解放」される可能性は否定できないけれど…

一つ言えることは、失敗した嫉妬は誰も得しないが、成功した嫉妬の元では独り勝ちは出来ないということである。そして社会というものがいかに強力な成功装置であるかを鑑みれば、多少のLose-Loseに目をつぶってでもWin-Loseを避ける戦略は実に理にかなっているのではないだろうか。

しかし皮肉なことに、人々の絆の源となった(かもしれない)嫉妬という感情も、社会が大きくなればなるほど功より罪が大きくなってしまうことも本書は指摘している。

P. 99
一方で、今日の大きな集団の社会では、選択肢が拡大しました。相手に嫉妬を表明しても、相手はそれをわずらわしく思い、他の選択を求める可能性が高まりました。嫉妬を表明するほう、他の選択肢がたくさんあるのに、なぜ固執するのかと批判されるようになっています。

双方のいいところどりは、出来ないのだろうか?

手前味噌であるが、「働かざるもの、飢えるべからず。」で提唱した社会相続によるベーシック・インカムというのは、嫉妬を健全なレベルに保つためにも有効なシステムだと考えている。少なくとも今回のような事件は起きようがないし、ベーシック以上のものを求めるのであれば、強欲を味方につけることもできる。逆にベーシックで満足できるのであれば怠惰も「好感情」となるし、不足の憂いが和らげば暴食もまた減ることは、社会統計が証明している(例えば肥満度と収入の関係など)。

一つ言えるのは、もはや「感情を抑える」という手段では「次の一歩」に進めなさそうなこと。経済成長が続いても幸福度が上がらない一番の理由は、そこにあると私は見ている。

P. 196
将来の社会のあり方を具体的に描ける段階にはまだありませんが、進化心理学によって、「文明の心」をどのようにデザインしていくかの方向性は、きわめて明確になっているのです。

社会設計のために感情を合わせる--どころかあまりに多くの場面において単に殺す--のはこれくらいにして、感情をも織り込んだ社会設計をはじめてもいい頃合いなのではないか。

Dan the Rationally Irrational