出版社より献本御礼。

やっと得心した。

「みんなちがって、みんないい」を。

なんだ。簡単なことじゃないか。

本書「だからこそできること」と「五体不満足」の違いは何か。

共著であるということである。

ほとんど差がなくて、しかし決定的な違い。

この違いのおかげで、理性では即座に理解したのに、感性では納得しきれなかった「みんなちがって、みんないい」が心に収まった。

その前に、まずは「五体不満足は不便だけど不幸じゃない」という乙武の主張を検証してみよう。あまりに立派な台詞ゆえ、これは著者の本心ではなく強がりなのではないかという疑念を読者は払拭できなかったのではないか。

特に、このような場合は

Amazon.co.jp: カスタマーレビュー: 五体不満足 完全版 (講談社文庫)
彼は人間として無くてはならない負の部分を欠損している。

「人間」。レビュアーは共著者を「同じ」人間として観ていて、それゆえ「人間を代表するかのような発言」を「非常に不愉快だ」と感じている。

違う、違うんですよseasideさん。

「人間」じゃないんですよ、共著者は。とりあえずオトタケ星人とでもしておきましょう。

オトタケ星人は操るべき手足を持ちません。その代わり手足のように人間を操り、操る人間の喜怒哀楽を自分のそれのように感じることが出来るのです。

鳥を見て、「あのように飛びたい」と思う人はいくらでもいますが、「羽もげろ」と念じる人を私は知りません。

鯨を見て、「あのように泳ぎたい」と思う人はいくらでもいますが、「溺れろ」と念じる人を私は知りません。

蛇を見て、「手足がなくてかわいそう」と同情する人も私は知りません。

それこそ蛇足というものでしょう。

Share photos on twitter with Twitpic

こんな風に。

乙武洋匡とは、違うのです。

ザクともあなたとも。

違うのであれば、愛することは簡単です。鳥を愛でるように。鯨を愛でるように。蛇を愛でるように。

ところが、「同じ」だと思ったとたん、人間は「比べて」しまいます。そして「差」が気になってしょうがなくなり、それを「なくそう」としてしまいます。自分に足そうとしたり、相手から引こうとしたり。

差とは、同じ物差しを当てたときの、二つの目盛りの間の距離のこと。相対的。

違いとは、ただただ同じでないこと。絶対的。

乙武洋匡は、差という概念を手足とともに母の体内に置き忘れたまま生まれ、そして父母は違いという概念だけを育んだんです。こりゃ菩薩でしょう。地蔵菩薩(笑)。数学がまるでだめだったのも当然ですね。違いはわかっても、差はわからないんですから。「不便だけど不幸じゃない」はブラフじゃない。違いしかわからないのでは不幸になりようがないんだから。

本書のいま一人の共著者、武田双雲はそこまで天然ではなかった。五体満足なふつうの天才。ふつうの天才ってなんだか撞着してるけど、「みんなちがって、みんないい」も撞着。で、五体満足だけあって、見ただけじゃ違いはわからない。でもやっぱり違う。

同じく五体満足の私も、これでは得心するしかない。

おかげで最初は眩しかった「僕たち、褒められて育ちました」に今では同情すら覚える。

両著者とも、自分が持つ違いを両親に教わっちゃったんだもの。なにこの「犯人はヤス」っぷり。

そうでない人には、自分でそれを見つける旅が待っている。

Talk:Albert Einstein - Wikiquote
Everybody is a genius. But if you judge a fish by its ability to climb a tree, it will live its whole life believing that it is stupid.
誰もが天才だ。でも魚の能力が木登りでおしはかられたら、魚は一生自分が間抜けだと思って過ごす羽目になるだろう。

本書の主題「だからできること」というのは、その意味で上級者向けとも言える。「差」を乗り越え「違い」を見つけてからが、出発点となるので。

というわけで、乙武でも双雲でもない弾だからできたことを、お礼として進呈する。それは、両著者が解答しあぐねた質問状に対する、より具体的な答え。

Q. 親兄弟すら愛せない自分が自分の子供を愛することができるのか。産んで、もし愛せなかったらと思うと恐くてしかたがありません。

これに対するお地蔵さんの答えは、こう。答えになっていないことは本人も承知している。

 うちの妻はたまたま同じような不安を抱えていて、たまたま愛せてはいるけれども、だからあなたもきっと愛せますよという、無責任なことは言えないです。
 でも、同じような悩みを抱えていた妻が、今はとても子どもを愛しているということは事例としてお伝えしておきます。

私の答えは銀の弾丸ではないのだけれども、「事例を伝える」よりは使えるかと思う。一応私自身で試してある。なぜそれでうまく行ったのかという作用機序がわかったのは本書を読了後ではあるのだけど。

それは、自分を「ママ」と呼ばせず、名前で呼ばせること。私の場合「弾」と本名そのままだけど、それが気恥ずかしかったらニックネームでもハンドルでもなんでもいい。重要なのは相対的な一般名詞ではなく、絶対的な固有名詞であること。

「自分の子」だと、どうしても子どもを自分と同一視してしまう。同一視するということは、同じものさしをあてがうということ。そしてものさしをあてがうと、差が目に入ってしまう。憤らずには、いられない。

差がない場合はもっと危険だ。自分の不幸を子の不幸と錯覚してしまうのだから。親子心中までは、あと一歩。

名前で呼ばれれば、こうした過誤はずっと起きにくくなる。自分とは違った存在であることを、ずっと忘れにくくなる。外では紳士淑女なのに、家庭内では暴力をふるいまくる親は古今東西珍しくはないけど、今思うとあれは自傷行為の延長なのではないか。怒りのあまり壁に頭をぶつけるようなものだ。おかげで毎日のように殴られて育った私も、妻や娘達に拳を振り下ろした事は一度もない。

とはいえ告白すると、怒りのあまり物をぶちこわす事は今でも珍しい事ではない。得心まで至っても、肉体いや無意識はおいそれと言う事をきいてくれない。しかしどう「カウンターステアあてればいいか」はこれではっきりした。両著者に感謝を。

そういえば「障害者」(あえてオトタケ流)の英語表現 "disabled" を、 "differently abled"という動きがあったっけ。あまりに politically correct さが鼻を突くということで普及はしていないけど、今はこの言葉が腑に落ちる。そして英語に憐れみを禁じ得ない。

「違い」も「差」も、英語では"difference"がないのだから。

Dan the Differently Abled