出版社より献本御礼。
東京電力をめぐる「どうしてこうなった」を知る、現時点における最良のまとめ。
それだけに、「これからどうする」かに対して、もう一言欲しかった。
変えられるのは、未来なだけなのだから。
本書「東電国有化の罠」は、現在提示されている東京電力国有化のスキームが
カバーより…「東電国有化」は、事故を起こして賠償責任を背負い込んだ当の東電に自腹をきらせていることなく、おカネの問題を丸ごと国家の公的資金で肩代わりする政策にほかならない。…ステークホルダーは当然負うべき経済的責任を免れる。その分かりに国民が真っ先に負担を強いられるという負担義務の順位の大逆転が起こるのだ。…
というものであることを示すと同時に、なぜそうなってしまったのかを分析した一冊。
そうなってしまった理由は、「うちは悪くない」の積み重ねだと著者は喝破する。
オビより財務省「金は貸しても、与えない」
経済産業省「自分たちのエネルギー政策に間違いはなかった」
政治家「世論の批判を自分たちに向けさせない」
東電「責任を負うのは国である」
銀行「貸した金はなんとしても回収する」
このことに、異論はない。著者によって俎上に上げられた各組織でさえ異論は出せないだろう。出せるのであればとっくに原発は再稼働されているだろう。電力会社が責任を負いさえすれば、どう電力を捻出するかは電力会社の裁量なのだから。
ところが現状は、「動かしたいのはやまやまなのだけど国が許してくれない」と「止めておきたいのはやまやまなのだけど電力会社が電力供給に責任を持てない」の無限ループに陥っている。
それではどうするべきなのか。著者は通信自由化に規範を求めてはいる。
P. 312この自由化は、留守番電話機の付いた電話機やファクシミリ、コードレス電話、コンピューター、PCが頻繁に使われる時代の幕を開け、インターネット市場の急成長を後押しした。料金も、電話の時代は先進国で一、二を争うほど高かったが、現在は世界一高速のブロードバンドサービスを世界一廉価な水準で利用できるようになった。
では電力をそう持って行くためにはどうすればよいかを読者としては当然知りたくなるが、著者はそこまでの道筋を示していない。本書が示すのはあくまでこれまでのことであり、これからのことは読者に委ねられている。
というわけで委ねられた一人として考えてみると、通信自由化で得られたもの以上に、通信自由化で失われたものが参考になる。品質保証と、組織の安定の二つである。
まず品質保証。ブロードバンドもモバイル通信も、あくまでベストエフォートで、繋がる事を保証していない。当初は「なんて無責任な」と思われていたが、ユーザーはそれを受け入れた。「ネットは繋がらないこともある」「ケータイは切れることもある」は、今や我々の日常の一部となった。切れるのがいやなら、複数回線契約すればいい。電池の持ちが悪かったら自分で電池を買えばいい…品質確保の責任は、プロバイダーからユーザーに移ったのだ。
そして組織の安定。通信自由化によって、数多の会社が興り、そして数多の会社が破綻した。PHSを提供開始した会社は今や一社も残っていないし、ワールドコムすら破綻した。それでも「中の人々」は新天地に散らばって行ったし、通信そのものが損なわれるということは起こっていない。
電力だって、それは同様のはずなのである。電力会社の独占が許されてきたのは、本来安定供給という定性的な理由ではなく、送電網と発電装置が大規模で、小さな会社では損益分岐点を割ってしまうという定量的な理由にすぎない。
もう我々は知っているはずなのである。
組織にしがみついて一番損をするのは、組織の中の人々であるということを。
それにしても国鉄がJRになって、電電公社がNTTになったにも関わらず、九電力がスルーされつづけてきたのはなぜだろう。原子力という国策を電力会社が押し付けられたことは、それと無関係ではないのではないか。原発推進派に電力自由化の主張が見当たらないことは、それを示唆している。もし原発が本当に安いなら、自由化ほどの追い風はないのだから。
電力を通信同様に自由化したかったら、よって「原発清算事業団」の成立は不可欠と私は考える。それなしに国鉄がJRに生まれ変わるのは無理だった。福島第一原発の事故そのものは未曾有の事態ではあるけれど、「これからどうする」の参考書であれば、すでに存在するのではないか。
歴史から学ぶ、とはそういうことなのだと私は思う。
Dan the Powered
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。