およそ現代の文明国において、「弱者、救済すべき」というのは共通認識(common sense)となっているようだ。生活保護者を叩く人ですら、「あの者は弱者にあらず」という論法は使っても「そもそも弱者を救済すべきではない」とまでは言わない。

しかしそれを子どもに問われた時、あなたはどう答えるか?

これは意外と即答しがたき難問ではないか?

「偉い人がそう言っていたから」というその場しのぎの解答さえ、実は危うい。

「弱者を救済すべき」とは、五戒にも十戒にも書いていないのだ。「不救弱戒」もなければ「汝、弱者を救済を怠るべからず」もない。

代わりに書いてあるのは、「不偸盗戒」であり「汝、隣人の財産を欲するべからず」。私有財産の尊重なら、どちらにも書いてある。しかしご存知の通り弱者救済というのはこれに対する一種の破戒でもある。

さらに調べてみると、驚いたことに現時点において日本語版Wikipediaには「弱者救済」という項目そのものがない(救済ならばある)。その代わり、見つけたのがこれ。

ハンムラビ法典 - Wikipedia - 弱者救済
あとがきに、「強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように」の文言がある。社会正義を守り弱者救済するのが法の原点であることを世界で2番目に古い法典が語っていることは現代においても注目される。

これはあくまでも「法の下での平等」であって、「弱者救済」というのはいささか弱いのではないか。

同様のことは、日本国憲法にも言える。

日本国憲法 - 第25条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

生活保護はこれをよりどころとしているのだけど、ここにすら「すべて健康で文化的な最低限度以上の生活を営む国民は、最低限度以下の生活を営む国民を扶助する義務を要する」とまでは書かれていない。

うーん、とうちゃん困ったぞ。

仕方がないので、自分で考えてみる事にする。

まず、以下の認識から出発することにする。

なぜ富者が、健康面で等しい貧者よりも強者とみなされるかはこれで説明がつく。富者は足りない力を他者から買ってくることが出来る。金というのは自力ではなく、他力本願力のことなのだから(浄土真宗の信者の方も、この用法は正しいことを証言してくれるはずだ)。人間の強弱は自身の強弱ではなく、どれほどの助力を他者から得られるかで決まる。貨幣経済以前も実はそうだったし、貨幣経済以降はなおのこと。

さすれば、弱者が強化されることで、助けが必要な人は減り、助けてくれる人は増えることになる。

なあんのことはない。助かるのは助けてもらったものだけではなく、助けた方もそうなのだ。情けは人のためならず。

とはいえ、誰をどれくらい助けるべきかというのは、やはり簡単ではない。「得られた果実は全員均等に分配」となっては、共産主義になってしまう。これは前世紀にソ連が国をかけて反証してくれた以上(実際は均等でもなんでもなかったとはいえ)、同じ過ちは繰り返せないだろう。

しかし「遺産を全員均等に分配」であればどうか。これは前者と似ているようで異なる。均等分配するのはあくまで遺産。それをどう消費しどう投資するかは、各人次第。これであれば「アイツの方がオレより受け取っている」という「誰が誰を贔屓した」という論争は出来なくなる。誰も贔屓していないとも言えるし、生者全員を贔屓しているとも言える。そして遺産という、「もはや持ち主がいなくなった財」を分配する以上、(来世を信じない限りにおいては)「不偸盗戒」も「汝、隣人の財産を欲するべからず」も破戒する必要がない。

このあたりの考察は「働かざるもの、飢えるべからず。」でも本一冊かけて行ったが、「弱者救済」というのが実は意外な難問であり、そしてぐぐってもうぃきってもすぐに答えが出る問題ではなかったので備忘録代わりにここに記した次第。

Dan the Weak Well-Off