保守を自他ともに任ずる人にこうまで言わせるというのは大海嘯の前触れかなんかかも知れないので、予定を変更してもう一つ聞かれる前にあらかじめ考えておく事にする。

「お年寄りを見殺そう」という第三極の政治勢力: やまもといちろうBLOG(ブログ)
でも老人を馬鹿にするな。もっと活用できるだろ。

そう思っていた時代もありました。

「あれ?消費税はどうした?」という声も聞こえてくるが、そちらは今までも書いて来たし、twitterでもつぶやいたし、実際そもそも消費税を増税する理由というか口実がまさにそれなので、ここでは消費税に関してはリンクを紹介するに止めておく。

一番上はさておき、下の二つに関してはこれらに質量ともに匹敵する反論、すなわち消費増税賛成論を是非紹介していただきたいのだが、それを待つ間本題へ。

「若くて」「未熟」な弱者救済と異なり、敬老の方の歴史は古い。十戒にも「あなたの父母を敬え」とはっきり書いてある。それ故父母を傷つけたり、ましてや殺したりするのは単なる障害や殺人よりも重い罪で、かつてはこの国にも尊属殺人という罪名が存在していたことからもその敬われぶりは伺われる。

それでは、なぜ父母は子女より、そして祖父祖母は父母より敬われていたのか。

彼らこそ、「皆の知恵」だったからだ。

コンピューターはおろか紙もなく、筆記用具といえば洞窟の壁と消し炭ぐらいだった時代。

彼らは一族のGoogleであり、一族のWikipediaであったはずだ。

知恵の引き継ぎが終わっていない段階で彼ら長老を失うことは、一族が連綿と受け継いで来た知恵を失うも同義だったはずだ。それも「すごく興味をそそられるけど知ってても知らなくても明日が来る」、たとえば「宇宙の73%はダークエネルギー」のようなものではなくて、「赤子な泣き止まないけど乳がよう出ない」ような、それこそ一族の存亡をかけた、「今そこになくてはならない知恵」の存亡がそこにかかっている。

「卵子は老化する」なんて話題が数日前に出ていたけれど、その卵子が老化して女性が閉経を迎えても、そこまで生き延びた女性にはまるまる一世代ほど寿命が残っている。これはよく考えれば生物として結構不思議なことで、サケなんか受精卵が出来た途端寿命が来たりする。しかし人類の育児に知恵が必要不可欠なものだとすればこれはむしろ当然のことで、このことは「おばあちゃん仮説」として今日日のたいていの人類学の本には出てくる。右は以前献本いただいたもの。この場を借りて献本御礼。

「たかだか出産」でも産が必要な動物、それが我々。

その一方で、子どもというのはつい最近まで実に簡単に死ぬものだった。それがどれほど簡単だったかは「繁栄」をひもとくだけでよい。二十世紀初頭の家族において、七五三とは本当に節目だった。目出たい事を一休和尚は「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」と定義したそうだが、彼の時代にはそれは文字通り希望、希なる望みだった。一休和尚とさほど変わらぬルネサンスの女傑、カテーリナ・スフォルツァに至ってはこうである。

404 Blog Not Found:Every WHAT is sacred?より孫引き
 次の日、陰謀者たちは、カテリーナの子供のうち上の子二人を城塞の前に引き連れてきた。子供を使って、彼女を変心させようとしたのである。
 剣をつきつけられた子供たちは、泣きながら母親を呼んだ。
 その時、カテリーナが姿を現した。裸足で髪も結わずに流したままの姿で。オルシは、城壁を出なければこの子供たちを殺す、といった。それに答えた彼女の言葉こそ、マキアヴェッリ以下、あらゆる歴史家に語りつがれた有名な文句である。やおらスカートのすそをぱあっとめくったカテリーナは叫んだ。
 「なんたる馬鹿者よ。私はこれであと何人だって子供ぐらいつくれるのを知らないのか!」

貴人でさえ、こうだった。

次世代のことを考えたら、年長を優先にした方が、一族がこの先生きのこる確率が高い時代がずっと続いたのだ。

しかし先進国のこの半世紀は、老の価値が暴落し、幼の価値が暴騰する半世紀であった。どちらも死ににくくなったが、より死ににくくなったのは赤子。実は今なお最初の一年を乗り切るのは難事で、第19回生命表によれば10万人のうち女性ならば298人、男性であれば345人は満一才の誕生日を乗り切ることはないのだけど、その後は滅多な事では死なない、生きていて当たり前の人生が還暦過ぎまで待っている。

その一方で、知恵の実の多くの部分が外部化された。紙と筆記用具の発明でも結構進んだけれども、録音装置の発明、録画装置の発明、そして情報処理装置の発明と進歩よってもたらされた知恵の外部化はそんなものではなかった。Facetimeをはじめ、テレビ電話のCMが孫と婆爺の対話になっているのは伊達じゃない。知恵のみならず、技の外部化も著しい。かつて産婆とは職の名前ではなく役の名前であったのだから。今では祖母が産婆を務めたら、緊急時でもなければ刑事事件になりかねない。そして粉ミルクのおかげで、♂の私でさえ乳母が務まるようになった。

それでも直接手に関わる知恵まで全て外部化されたわけではない。祖母の存在は我々夫婦にとって実にありがたいものだった。それで何度も危機を脱したものだ。特に初子の扱いに関しては、祖母なしには「適切な間合いの取り方」を学べなかっただろう。私はこの年になって正真正銘の伯父となった。つまり私の妹が初子を得たのだが、かつて私が受けた恩恵を、今彼女が受けている。

残念ながら祖父は祖母ほどには役立たない。得に私の親の世代は家事を行う習慣があまりなく、ましてやおむつの取り替えなんて知識ですら知っているかどうか怪しかったりする。主婦たちが「粗大ごみ」呼ばわりするのも、粗大ごみ候補の私が見てさえ「あれでは仕方がない」という感じを禁じ得ない。

そんなわけで、「一族」視点における敬老の価値は、経済以上に激しいデフレを起こしているのだ。おばあちゃんたちですら病院には敵わない。おじいちゃんともなれば雄の白色レグホンなみの価値かも知れない。

で、話を2012年に戻そう。

「お年寄りを見殺そう」という第三極の政治勢力: やまもといちろうBLOG(ブログ)
老後の時間をどう有効に使ってもらうか。日本人として、生まれてきて良かったと思える晩年を、どう日本社会として築いていくか。それは大事な議論だと思います。でもねえ、もう余裕がないんだよ。

というわけで、失礼を承知で伺いたい。単刀直入に。

21世紀において、老人となったあなたがたを、まだ老人となっていない我々が敬い養う利点が、我々や我々の娘息子達にとってどのような利益があるのか、と。

本日衆議院で可決された消費税増税も、そのための原資だと伺っている。それを受け取るという以上、どれほど失礼な質問であったとしても我々にはそれに答えていただく権利があるはずだ。

あなた方が困窮しているというのであれば、老若以前に強弱をベースに「弱い者を助けるべきだから」で充分かも知れない。しかしあなた方は、日本の資産の過半をすでにお持ちでいらっしゃるのだ。なのになぜ年間50兆円をあなた方に貢がねばならないのか?一人分の子育てを犠牲にしてまで。

本日あわせて可決された社会保障5法案を見ると、その思いはさらに強くなる。高所得者の基礎年金減額は見送り。年金受給資格は25年を10年に短縮。子育て世代の負担増に比べればずっと楽な、ささやかな負担増でさえこのありさま。

もう一度、問う。

我々が一人分の子育てを犠牲にしてまで、あなた方に貢ぎ続けた代わりに我々が得るものは一体なんなのか。

なぜ問うてるかといえば、決まっている。同じ質問を我が娘達に問われても、私には理由がさっぱり答えられないからだ。私自身は、財産が底を尽き、娘や孫(もし彼女達が子を生す事を選んだ場合だが)に語るべき知恵も尽きたら、いつでも肉骨粉になっていい。その程度の覚悟は父親となった13年前にとっくに出来ている。

余裕があるなら、みんなお年よりは大事にしたい。

いや、違うだろう。とーちゃん。

なぜ一番余裕がある人々が、一番大切にされてしかるべき子供たちを大切にしないのか。それを伺いたいのでありませんか?

Dan the Father of Two