双方とも出版社より献本御礼。
どちらも古典中の古典に対する「挑戦」なのであるが、私の判定は、双方とも「防衛者の勝ち」。
しかしその理由が正反対なのが興味深かったので、あわせて紹介することにする。
「数学入門」も「いかにして問題をとくか 実践活用編」も、書名自体「旧書」と同じことからもわかるとおり、旧書を読んで育まれた著者たちが、旧書に対する最大限の尊敬を込めて著した「挑戦書」である。小島にせよ芳沢にせよ、現代日本の一般向け数学書の書き手としては第一人者で、本blogでも両者の手による本は事実上の常連である。それだけに私の期待も高く、両者ともその期待に見事にこたえてくれた。原著の著者たちもこれなら納得してくれるという出来だ。
それでも、旧書との「勝負」は、負けと判定せざるをえない。
どこで、差がついたのか。
「いかにして問題をとくか 実践活用編」目次
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まずは「いかにして問題をとくか」。「より現代的に読みやすく」という点においては、たしかに「いか問」の愛称で親しまれている旧書を凌駕している。そのことは目次をみるだけで確認できる。旧版にはこの目次すらなかったのだ。どちらが読みやすいかといえば、新書たる本書の方である。
しかし、半世紀後に改めて読んだ場合は、どうか。
来年のことすら鬼が笑うのに、というなかれ。「いか問」の第一版は1945年上梓なのだ。
そう考えると、本書を読みやすくしている時事への言及がうとましくなる。東京スカイツリーもAKB48も、その頃の読者には「ハァ?」だろう。少なくとも注釈は必要になるに違いない。東日本大震災でさえ、現代人が関東大震災を扱うような感じになっているはずである。
とはいえ、「はじめから古典を狙う」というのは、執筆の姿勢において邪道でもある。聖書もガリア戦記も学問のすすめも、全て往事の著者と空気を共有する、当時の読者に向けて書かれたのだし。その意味で著者の姿勢は正道である。がそれ故本書の賞味期限が短くなってしまったのはやはり否めない。
返す刀で「数学入門」の方をみてみると、こちらは反対に数学への純化を進めすぎたがゆえに、旧書の「つかみのよさ」を損なってしまっている。
「数学入門」目次
- 第一章 ピタゴラスの定理からはじまる冒険
- 第二章 関数からはじまる冒険
- 第三章 無限小世界の冒険
- 第四章 連立方程式をめぐる冒険
- 第五章 面積をめぐる冒険
- 第六章 集合をめぐる冒険
どういうことかというと、一旦数学に「入る」と、そこから物理などに「出ず」に数学に入りっぱなしになってしまっているのである。本書は目次にある「ここまでなら知っている数学」そのものをつかみにして、その奥にずんずん進むことで、「ここまでは高校ないし大学前半で教わる数学」に至るという構成で、教科書には欠けている
- スピード感
- 思想性
- 躍動感
を満たそうというもので、確かにその試みは大成功とも言えるのだが、これでは「苦手だけど好き」な人はついて来れても、「苦手で出来れば避けたい」人はやっぱり避けてしまう。
これに対して旧書では、数学外の問題を数学を通して解く事で、どんな数学嫌いでも数学が「役に立つ」ことまでならなんとか伝わるようになっている。
404 Blog Not Found:書評 - 数学入門ケプラーの法則から万有引力の法則を導出する場面は本書の一番の見所で、この場面を楽しめれば三角関数は克服できたも同然なのだ
スピード感を堪能するのに充分な「距離」と「褒美」が確保されていなかったこともあわせて指摘しておきたい。このスピード感で走ってるのにゴールに「オイラーの贈物」がないというのは寸止め感が強すぎる。これじゃめぞん一刻が14巻で打ち切りになっちゃったようなものですよ。
とはいうものの、どちらの旧版も「とうが立ってる」のは確かに否めない。特に「いか問」の方は、版下が古すぎて字がかすれて読みにくいという、数学書以前に製品としての老朽化も目立つ。そんなわけで、今のところは両方とも新館から入って旧館に泊まるのがおすすめである。
Dan the Mathphilia



こうやって、ちゃんと数学的基礎の上に、自然言語で文章を通信媒体に乗せられるんだもん。
あらゆる数学を成立させている根拠は、どこまでも同一律(その特殊態様が幾何学における合同)の成立であるはず。あらゆる感覚的現実と理念的現実がすべて差異しかなければ、「みなし」でも、「同じ」とか「等しい」が成立不可能ならば、数学は、存在できなかった。
ドイツのキリスト教神秘思想家マイスター・エックハルトによれば、神とは、「等しさ」のことである、ということである。まさしく、数学は、神から人類への最大の贈り物。弾氏も、知ってか知らずか、神のお使いの一人ということ。