
すごかった。
すごい、「しょぼさ」だった。
すごい、智慧と技巧だった。
そしてすごく、哀しくなったのち、すごく励まされた。
デジタルネイティブは絶対直に見ておいた方がいい。
在りし日の、(アナログ)特撮というものに。
特撮博物館の入場者たちを最初に迎えるのは、特撮に使われた模型たち。
ブラウン管(そう、フラットパネルではなく)の向こうの「本物」のそれを目にして感激した人もいただろう。そのブラウン管を通してみた番組を見て懐かしさがこみ上げた人もいただろう。しかし思い出というコンテキストを差し引いて、展示物というテキストを注視すればするほど、私には「なにこれしょぼい」という感想しか出てこなかった。ディテールはすかすかだし、デザインは非合理的。子供だましとはいうけれど、今時の子供はこの程度でだまされてはくれないだろう。
そんな思いを抱えながら、私はミニシアターに導かれる。「巨神兵東京に現わる」。上映時間九分のこの映画に、CGは一切使われていない。なのにCGを使ったとしか見えない、「非現実的かつリアル」な映像がそこで繰り広げられる。巨神兵は着ぐるみで演じるには細すぎる。ビームを浴びて溶けるビルディングはいったいどうなっているのか。そしてあのキノコ雲。いったいどうやって模型で再現するんだ…
すごい。しかしそこには「CGなしの特撮にしては」という但し書きがつく。CGを使っていたらもっと迫力のある、もっと自然な絵が、もっと簡単に撮れたのではないか…でもCGにしか思えないあの絵は一体どうやって…
圧巻なのは、その後の「巨神兵東京にこうして現わる」。要するにメイキングなのだが、ここで主だった「CGのような特撮」の種明かしがなされる。はああ。巨神兵ってこうやって動かしたのか。ビルはこう溶かしたのか。キノコ雲のシーンでは、本映像を神妙に観ていた人々から歓声が上がった。
そして最後に、ミニチュアセットの中に導かれる。縮尺的に、その中で人はエヴァぐらいの大きさになる。ここは撮影OK。私を含めほとんどの人はスマフォで写真を撮りまくっていた。もっといいカメラを持って来てもよさそうなのに、一眼レフで撮っていた人はiPadで撮っていた人よりも少ないように見受けられた。銀塩カメラらしいものを持っていた人は、私がみた限りゼロ。
そこで気づかされてしまったのである。
デジタルとは、アナログにとっての巨神兵だったのだ、と。
No CGな「巨神兵 東京に現わる」でさえNo Digitalでは実はない。打ち合わせの現場にはしっかりiPadがあったし、上映そのものはおそらくデジタルプロジェクター。そして解像度は、おそらく普通のカムコーダーで撮られた「〜こうして現わる」の方が高く感じられた。
「〜こうして現わる」の撮影スタッフたちは実に楽しそうだった。巨神兵を動かすだけでも三人がかり。もちろん動かす仕組みにはもっと大勢のスタッフが関わっている。映像自身と撮影方法という二重の意味でありえない作品を、彼らは心の底から楽しんで作っていた。
しかしそういう途中の過程をすっ飛ばして、「特撮のように見える九分のミニムービー」という作品自体を手段を問わず作成するという課題を現代の映像作家たちに与えたらどうなっていたか。おそらくたった一人で、もっと「リアル」な作品をオールCGで作り上げてしまったのではないか。どころかニコニコ動画にそれをうpして「野生の庵野」というタグを得ていたのではないか。「CGのような特撮」より「特撮のようなCG」の方がはるかに簡単で、はるかに高品質のものができるであろうことは素人目にもわかってしまうし、そして現場の彼らはそれを肌で知っている。
撮影という過程ではなく、作品という結果をシビアに追い求めるのであれば、アナログ特撮は正解とはなりえない。ルーカスはEpisodes IV-VIを「仕方なく」アナログSFXで撮った後、Episodes I-IIIを「本来の」デジタルCGで撮った。セルアニメーションで世界を魅了し席巻したディズニーを救ったのは、フルCGのピクサーだった。「オリジナル」の巨神兵がスクリーン上で「腐ってやがる」頃には考えられないほど多くのアニメ作品を我々が楽しめるのも、制作過程のデジタル化がすすんだからだ。「アニメのように見えるCG」は、今やアニメそのものである。ヱヴァンゲリヲンがそうであるように。
かくして品質はあがり、単価は下がった。消費者の天国、生産者の地獄。
しかし変わらないものもある。「撮りたい絵を撮りたい」という作り手の熱意だ。撮りたい絵を撮るためなら、作り手は何だってする。もちろんCGだって使うし、撮りたい絵を撮る最良の方法がCGになるケースは今後もますます増えるだろう。その時アナログを知っている作り手は、デジタルしか知らない作り手より優位になる。紙と鉛筆だけでプログラミングできたダイクストラに、どれほどのデジタルネイティブなハッカーが太刀打ちできるだろう。
「あいつは生きている。我々の心の中に」というクリシェがある。特撮技術はおそらくそういう存在になるのだろう。職業としてやっていくにはあまりに手間暇は大きく、そして物理という制約は論理よりはるかに厳しい。しかし心の中にそれがいる人が、それがいない人に発想において遅れをとる事態もまた、私には想像しがたいのだ。
そこまで考えを進めたら、あの不格好でぶっきらぼうな時代遅れの模型たちが俄然愛おしく思えてきた。この企画を実現した全ての人々に感謝すると同時に、これが常設展示でないことが惜しまれてならない
Dan the Digitize(r|d)
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