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新世界より(Kindle/文庫版上中下)
貴志祐介

アニメがはじまったのと風邪をひいたのをいいことに、読み返してしまった。

で、思い出した。「最強の100冊+1」に入れているにも関わらず、単独書評がまだであることに。

本作「新世界より」は、現時点における超能力SF最高傑作。

この分野はSF&F(Sci-Fi and Fantasy)における最大派閥の一つといってよい。七瀬三部作に「異星の客」…大家であればこの分野で大作をものにしている感がある。しかし超能力が人気なのは「古典的」なSFよりむしろ漫画やラノベといった、SよりFに重きをおく分野だろう。「地球へ…」に「赤い牙」に「超人ロック」…「Hunter x Hunter」もそうだ。「魔力」を超能力に含めると、も「鋼の錬金術師」「魔法少女まどか☆マギカ」もこれに入ってしまう。超能力抜きに、フィクションは語れない。

その一方、サイバーパンク以降の「地に足がついた」SFではむしろ避けられているように感じる。野尻抱介小川一水円城塔小林泰三も、超能力ものは私が知る限り書いていない。ファウンデーション=ロボット世界にさえ「ロボットと帝国」でアシモフが超能力者を登場させたことを考えれば、昨今のSFにおける超能力離れは深刻といってもよいのではないか。

たしかに超能力の濫用は、作品をgdgdにする。ファンには申し訳ないが、「とある科学の超電磁砲」にはそのふざけた幻想をぶち殺したい気持ちでいっぱいだ。「ハリー・ポッター」に至っては一生スニッチを追っかけてろという感想しか出てこない。

たとえフィクションといえど、きっちりした誓約と制約((c) Hunter x Hunter)がなければつまらない。少なくとも私にとっては読み返すに値する作品とはならない。その点において本作のシステムはある意味究極である。

超能力者どおしは、バトルできないのである。

なぜ超能力ものがフィクション界においてこれほどの大勢力になっているかといえば、Appleを差し置いて未だブランド価値ナンバーワンのコカ・コーラと同じである。圧倒的な力の行使はスカっとさわやかだからだ。それを存分に行使できるのがバトルなのに、本作の世界ではそれはありえないことなのだ。

超能力--本作の世界では呪力--で人間を殺めた人間は、自らの呪力で愧死する。

本作の世界の人間には、そのような機構が組み込まれている。

そして本作の世界において、すべての人間は超能力者なのである。

まずこの発想が、なかった。フィクションにおける超能力者はほぼ常にマイノリティで、そうであるがゆえに「地球へ…」のように弾圧と迫害の対象となるか、「超人ロック」や「鋼の錬金術師」のように「特殊技能者」として「非超能力者にとって都合のいい存在」として描かれるかのどちらかだった。しいて「みんな超能力者」な作品を上げると、「七胴落とし」だろうか。しかしこれも「みんな」が未成年に限定されていて、大人になると超能力は消失する。そして同作では、この未成年者どおしの超能力バトルが作品の根幹となっている。「マリンガ」どっちが先に相手を超能力で操って自殺させられるかを競うのだ。

しかし本作はその上を行く。同作とは逆に本作においては、呪力の獲得から成人がはじまる。社会の構成員はすべて超能力者。本作が超能力ものの最高傑作なのもある意味当然なのかもしれない。「地球へ…」と「七胴落とし」の終着点が、本作の出発点なのだから。

すべての人間が、超能力を手に入れたら、人間はどのような社会を築きあげるのか。

そしてそのような社会はどのような脆弱性を孕んでいるのか。

本作は、その意味で物語であると同時に思考実験でもある。全ての人々が「歩く核兵器」とあだ名したくなるほど強大な力を持った世界において、人々はいかにして平和な暮らしを獲得するのか。「ロボットと帝国」に登場する超能力者の惑星では、超能力者たちはお互い何百キロも離れて生活することによってこれを実現していたが、本作において人々は、現代人の理想ともいえる田園都市でともに平和で暮らしている。呪力が機械を一掃し、愧死機構によって同胞に対する暴力が一掃された理想郷。

しかし新世界は本当に何も傷つけず、何も壊さずに成しうるのか、そして保ちえるのか。

偽りの神に抗え」。うんうん。しっかり読んでらっしゃる。第一話を観たかぎり、アニメも大丈夫そうだ。

しかし本作は、思考実験であると同時に、物語である。そして物語とは結論ではなく過程を楽しむものである。この過程が、本当に絵になる。「SFはやっぱり絵だねぇ」とは故野田昌宏の弁だが、これほど郷愁をそそる絵はありえないというぐらい素晴らしい。新世界、1000年後の神栖に郷愁を抱かぬ読者はありえない。

と同時に思春期のあの所在のなさの描写もまた絶賛する他ない。エロスとパトスが最も高揚するこの時期の主人公達の描写は、それだけで独立した作品となりうる(と同時にアニメ版でどこまで描いてくれるのか一同最も懸念しているところでもある)。しかし本作がライトノベル(としても読める)でもエロノベル(としてももっと読める)でもなく、やはりSFたらしめているのは、その思春期の所在のなさを、呪力を得た新世界の人類全体にまで当てはめていること。自らに収まり切れない力を、いったいどう鎮めるのか…

そして、呪力を持たぬ、旧世界の人々は、いったいどこへいってしまったのか…

主人公が自分の1000年後の人々のために書いた物語を、その1000年前に読める悦びを、存分に味わおうではないか。

Dan the Ancient One