ご愁傷様です。

新人賞をとって、ミステリー作家になりました。 - 「俺の邪悪なメモ」跡地
このたび「日本ミステリー文学大賞新人賞」という賞を得て、ミステリー作家としてデビューすることになりました。

おめでとうございます、ではなくて。

なぜか。

葉真中顕(はまなかあき)が、罪山罰太郎のみならずその作品を「殺して」しまったから。

404 Blog Not Found:「本は、購入した人の所有物ではありません」という著者は一刻も早く完全電子化を!

ところが電子書籍であれば、こんなことも可能なのです。

アマゾンは「ビッグブラザー」? 電子書籍を無断で遠隔削除 国際ニュース : AFPBB News
【7月19日 AFP】米インターネット通販大手アマゾン・ドットコム(Amazon.com)が、電子書籍用端末「キンドル(Kindle)」ユーザーに販売したジョージ・オーウェル(George Orwell)作品の電子書籍をユーザーに無断で遠隔削除したことが分かった

まさに、これが行われたわけだ。

今までつけていた「Web日記」を消してしまうことそれ自体に、問答無用で[これはひどい]タグをつけるつもりはない。消したい過去がない人は、歩むに足りる人生を歩んでこなかった人だとすら断言してもよい。「消せるものなら消したい」のなら、消せるのだから消せばよい。理由は何だって構わない。「ストーカーが怖くなったから」から「むしゃくしゃして消した」まで。

しかし彼は、作家となることを選んだ。

作家とは、何か?

作品を生み出す人のことである。

作品とは、何か?

作家の、作家による、読者のためのものである。

それは著作権という名の利権を有するという点においては作家のものであるが、それを読むことによって得られる体験は、もう作家のものではない。「作品は自分の子供のようなもの」というのは、まさにこのことを指す。

つまり一度publishされた=世(public)に出された作品を抹消するのは、子殺しのようなもの、ということになる。

今や404となったこれらの記事をどう供養すればよいのやら。

私自身、告白すると自分の過去作品を見ると痒くなる。特に今月は「「中卒」でもわかる科学入門」のみならず、「本を読んだら、自分を読め」も上梓されるので、いつにもまして痒い。

しかし、世に作品を送り出すということは、死ぬまで--いや死後も--この痒みに耐え続ける事ではなかったのか?作家になるということは、その痒みを引き受けることを世に問う行為ではなかったのか?Amazonの「☆一つ」に耐えることを決意する行為ではなかったのか?

[これはひどい]タグを甘受する行為ではなかったのか?

不可解なのは、彼が葉真中顕が罪山罰太郎であったことを明かした上で、罪山罰太郎の記事を抹消したこと。

これを機に、ブロガー罪山としての活動はオシマイにして、「葉真中顕/はまなかあき」名義での作品づくりに専心しよう思います。今、新人作家の生き残りはきわめて難しいといわれてますが、精一杯がんばってみるつもりです。

「過去の『罪』を消した」だけでも作家に悖るというのに、その「罪」を公言することにどういう意味があるのか。過去の作品を抹消するような作家を応援することに、読者はどんな意義を見出せばよいのか。

作家の資格があるとかないとか以前に、この先生きのこることが出来るのだろうか?

「処女作」を遥かに上回るミステリーであることは間違いない。

Dan the Publisher