「中卒」でもわかる科学入門〉と交換献本御礼。在庫も復活したのでそろそろ紹介。

「なめらかな社会」? いいね!

「複雑な世界を複雑なまま生きたい」? だが断る。

本書「なめらかな社会とその敵」は、我々が本当に必要だったものは「なめらかな社会」であり、そしてそれを実現するためにはどうしたらよいかを説いた一冊。

「なめらかな社会」とは、何か?

自分という世界と社会という世界が、なめらかに繋がった社会である。

あなたも、一度は考えたことはないか?

自分とは、どこからどこまでなのか、と。

我々の皮膚の表面は、死んだ細胞、つまり垢で覆われている。爪も髪も死んだ細胞で出来ている。これらは自分なのか自分以外の何かなのか?腸内細菌は?今自分が吐いた息は?今自分が来ている服は?今自分がこうしてこの記事を読んでいるデバイスは?

よしんばそれらが自分自身ではなくても、「自分のもの」であることは、所有権という概念が空気のごとく当然化した現代人にとっては一見自明にも思える。しかしたとえば「自分の家」の敷地の境界はどこなのだろう。「何時何分何秒地球が何回回ったとき」という小学生の捨て台詞ではないが、数cm数m数μ数nm単位で「ここです」とはっきり言えるのか?それがちっとも自明でないことは、全焼した実家を再建する際に問題となったことを、22年後の今でもはっきり覚えている。上物だけではなく石垣の再建も必要だったのだが、この石垣がどこで終わっているのかで隣家と揉めるはめになったのだ。その22年の間に、この国だけで阪神淡路と東日本という二つの大震災があった。被災者のみなさんも同様の問題に直面されたはずだ。元被災者として心より同情申し上げる。

(漫画家ではなくて)数学者の矢野健太郎がどこかのエッセイで書いてたっけ。数学者のパーティーで非数学者が困ったら、「ところで境界問題はどうなってますか」と言え、と。

それくらい、「ものごとの境目」という問題は、我々を悩ましてきた。

λ = 1.0

しかしどうだろう。そもそも「境目をはっきりさせる」ということ自体が、我々にムラでムダでムリな苦痛を強いて来たのだとしたら?

それこそが、ベルリンの壁が崩壊したところを生で見た著者の問題提起である。

「境目をはっきりさせる」必要がどこにあるのか、と。

著者はそのことをシグモイド曲線を例にとって説明している。右に実物を用意したのでスライダーを動かしてみてほしい。右側が自分で左側が自分以外だと思ってほしい。まずはスライダーを思いっきり右によせてほしい。グラフはほとんど垂直になる。境目をはっきりした状態というわけだ。そこからゆっくりと左によせてほしい。グラフがなめらかになってきた。

なめらかな社会とは、なめらかな自分たちによって出来た社会である。そしてそれが、革命revolutionという「なめらかでない」方法によって得られるのではなく、進化evolutionという「なめらかな」方法によってなし得るのではないか、というのが本書が立脚する仮説である。

ここで一つ注意して欲しい。スライダーを一番左によせると何がおこるか?

自分と自分以外との区別自体がなくなってしまった。これは、「自分」なんて存在しない状態、であり、「死」と呼ぶしかない。著者が望んでいるのはそういう状態ではないのだが、各所の書評を見るとそこを誤解しているものがあまりにも多くてorzとなる。本書の売上には多大な貢献となったのだろうが、だが死ね

とはいえその誤解の責任の一部は著者にも帰せざるを得ない。たとえば受動意識仮説を紹介してる項(1.6)には「責任なき社会,自由意志なしの社会」というタイトルが振ってあるが、目次を見ただけでは「自由意志なんて幻想です、それどころか自分なんてものは幻です」という結論に陥るのも無理はない。本文をよく読めば、著者はそんなつもりで言っていないことははっきりしているのだが。

P. 31
自由意志があるから責任をとるのではない。責任を追求することによって自由意志という幻想をお互いに強化しているのである。

よーく読んでほしい。確かに「自由意志という幻想」という言葉がそこにある。しかし幻想という現象自体が存在しないとは、著者は一言も言っていないである。幻想は「形而内」には不在かもしれないが、それは「形而上」に実在していることまで否定するものではない。ドーナツの穴はドーナツを食べてしまえばなくなってしまうが、しかしドーナツがあれば確かに存在しているのにも似て。理性の限界を認めることは、理性自体の存在を否定することではないはずだ。電子の居場所がはっきりしないからといって、電子そのものがどこにもないわけじゃないでしょ?

もちろん、自著に〈「中卒」でもわかる科学入門〉と名付けた私に本書の「まぎらわしさ」を責める資格はまるでない。「幻想」と「否在」のまぎらわしさは、私も愛用する釣り針である。本書の場合、さらにそれがハンター試験を兼ねているところもあるのがニクい。著者が求めているのは、それがわかった上であえて釣られる読者なのだ。

だからこそ、懸念せざるを得ないのだ。「複雑な世界を複雑なまま生きたい」という主張が、「なめらかな社会」という智慧をFashionable Nonsenseに落としめることになりはしないか、と。茂木健一郎のおかげで偶有性という言葉がすっかりそうなってしまったように。

Albert Einstein - Wikiquote
Everything should be made as simple as possible, but no simpler.

「ものごとは可能な限り単純であるべきだ。しかし単純すぎてはならない」。アインシュタインが言ったとされる言葉だ。実はこれ自体、アインシュタインの元発言をさらに単純化したものではある。同様のことを言った人はそれ以前に必ず存在していたであろうし、これからも存在するだろう。だから私も繰り返す。

「なめらかな社会」の本当の敵は、「過度に単純化された」「なめらかな社会」だけではなく、「単純な」という副詞抜きの「なめらかな社会」である、と。「複雑な世界を複雑なまま生きたい」というが、そもそも世界が複雑であると結論づけられるほど我々は複雑な存在なのだろうか?

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およそどんな人でも、幸せな瞬間というのは次の二つしかないのかも知れません。
  1. できなかったことができるようになった瞬間
  2. わからなかったことがわかった瞬間

世界が前に進んだと我々が感じられる瞬間moment、それは「複雑なものを複雑なまま」という開き直りからは決して訪れない。できなかったことが出来るようになった瞬間ときも、わからなかったことがわかった瞬間ときも、それは一見複雑で無関係な見えていた物事どおしに通じる単純性を見出したときではないのか?

この中に、「複雑なものを複雑なまま」でよしとした人が一人でもいるだろうか?これを作らせた人も含めて。

世界で最も不可解なのは、世界が理解可能であるということです」、これまたアインシュタインが言ったとされる言葉だ。「なめらかな社会」は、社会という世界と自分という世界が、理解可能から一歩さらに進んで共存可能であることを実現するためのキーワードではないのか?

「なめらかな社会」が責任の所在というもの自体を無問題化しても、「世界はどこまで複雑なのか」という問題が「世界はどこまで単純なのか」という問題と同値である以上、そこは私という世界は譲れない。

とはいえ、現代は単純化への圧力が過ぎている時代だという本書の120%同意する。それが苦痛でないのだとしたら、この世界はとっくにLand of Lispになっていただろう。

複雑な世界を複雑なまま生きるには、世界はもっと単純なはずだというという幻想おもかげを 残したままで探求うつろい行くしかないのではないか。

複雑ナ世界ヲ拒マズ、単純ナ世界ヲ諦メナイ。

ソンナ世界ニ、私ハナリタイ。

Yet Another Universe Called Dan