出版社より献本御礼。

邦訳版タイトルは秀逸だが早とちりでもある。

待ちと先送りは似ていて異なるのだから。

本entryは、それについて主に書く事になるだろう。

本書「すべては「先送り」でうまく行く」の原題は"Wait: The Art and Science of Delay"、直訳すれば「待て:遅延の技芸アート技術サイエンス」ということになるが、Kindle/ペーパーバッグ版ではさらに"Wait: The useful art of procrastination"とより邦題に近い副題となっている。

はじめに
このあとの章で繰り返しみていくこととなるが、ほとんどの状況において、私たちは本来もっと時間をとらなくてはならない。長く待てば待つほど好ましい。判断にかけるべき時間の間隔がつかめたら、基本的に最後の最後まで決断の瞬間を遅らせるべきだ。1時間あるなら、行動を起こすまで59分は待つ。1年あるなら364日は待つ。ほんの0.5秒しかないとしても、とにかくぎりぎりまで待った方がいい。

「たとえ数ミリ秒でも、それが大きな役割を果たす」実例を読者は本書で確認することとなるが、まさに我が意を得たり。私自身「小飼弾の「仕組み」進化論」で「仕掛品をたくさん作り、最後の1ピースを待つ」と記している。

なぜ待つべきか。その私なりの答えが、仕組み進化論だった。いかに最新の機体でも、エンジンなしには飛べないし、たとえ機体が完成したとしても燃料がなければ離陸しない。何をどう待つべきか。十分条件が揃うまで待ち、揃ったらすぐ出発しろ、だ。

だからこそ、条件は日頃から洗い出しておき、すぐに取り出せる状態にしておかなければならない。さもなければ条件が揃った時点で出遅れたあげく、手に入れ損なうことになる。待つことの難しさがそこにある。「明日になったら本気出す」のではなく、「条件が整ったら、その場で本気出す」でないと待った甲斐をもっていかれてしまうのだ。これこそ、「待ち」と「先送り」の一番の違い。ただ先に送ったのでは、手に入れるのはそれを拾い上げた別の誰かなのだから。

待つためには何が必要か。私はそれを「ゆとり」と呼んでいる。仕掛品を置いておくためのゆとり。最後の一ピースを探すためのゆとり。そして、それが完成するまで生きて行くのに欠かせない糧を得るだけのゆとり…「慌てる乞食はもらいが少ない」と言うけれど、私が乞食ならこういうだろう。「慌てなくてすむなら乞食なんかやってませんよ」、と。

その意味において、「ゆとり」という言葉が若者の蔑称と化し、そうなりたくない若者を「今でしょ!」とあおる社会は「世界一『貧しい』」のそしりを免れないのではないか。しかし結局のところ、貧しさとは根っこのところで社会ではなく自分に属するものだと実感する程度には、今の私にはゆとりがある。だから読者には、著者と同じこの言葉をおくることにする。

今から100年後に生まれる子どものため、私たちと同じ力と限界を備えながらも今の私たちよりはるかに速い世界をいきぬいていかなければならない人類のため、意思決定をめぐる英知をたったひとことで届けるとしたら、それは間違いなく、この言葉だ。

待て。

Dan the Procrastinator