どこか似ている。

金持ちほど浪費しないのと、「たかが挨拶ぐらいしなくても」いい立場の人ほど挨拶が見事なのとは。

挨拶とは、何か?

「私はあなたに敵意を抱いていません」という意思表示と、「しかし仮にあなたが敵意を抱いている場合、力のかぎり抵抗します」という意思表示を、同時、安価かつ一瞬で済ませるためのプロトコルである、というのが私の目下の結論である。

ではプロトコルとは何か。

元々は、外交用語。

プロトコル - Wikipedia
外交儀礼としてのプロトコルとは、外交の場や国際的催しで、その実務や交流の場における公式な規則や手順などを、ひとつの典拠として利用できるようまとめたもの。歴史的外交事例に基づいた慣行や慣習を成文化したものであり、法的な拘束力はもたない。

なぜ法的拘束力をもたないかといえば、まだ法が成立する以前に有効になっていないと役に立たないから。法はまだないけれど、そこから法を築いて行きましょう、というのがその存在意義。異なる電脳どおしでデータをやりとりするための取り決めもそう呼ばれるようになったのはごく自然の成り行きだ。

もしプロトコルがなかったらどうなるか。

一度戦端が開いたら、最初から力の限り戦うしかなくなってしまう。白旗というプロトコルすら成立しないのであれば、降伏することもままならないのだから。

法が確立しているはずの世界においてさえ、プロトコルの欠如や不成立が致命傷になることは少なくない。ハロウィンや恋人の誕生日に射殺されるなんてまさにこの例である。ノックなしに玄関を開けても銃口を向けられないためには、「ノックなしで玄関を開けますよ」という合意をあらかじめ取り付けておかなければならないのだ。

冷戦が第三次世界大戦にならずに終結したのは、米ソ両国が挨拶をおろそかにしなかったからだ。もし両国がそれをおろそかにしてホットラインを開設していなかったら、それこそ一発の銃声で力のかぎり殴り合ってた可能性は高かった。しかしおろそかにならなかったのは、それをおろそかにしていたことがキューバ危機で露呈したから。挨拶の必要性は、挨拶を忘れた後に痛感することになる。

無益なだけでは、人は人に害を加えたりしない。排除コストの方が放置コストより高くつく限り。しかし有害であるとみなしたら、人はそれを積極的に排除しようとする。有害度が高ければ高いほど、より積極的に。そして力というものがベクトル、つまり方向を持つ量である以上、力がある者ほど有害と誤判定される可能性は高くなるのだ。

力がある者ほど挨拶上手になるのは、むしろ当然のことかも知れない。

「ちゃんと挨拶しろ」と言われているうちは、まだ小物。

挨拶を覚えぬ大物は、遠からず射殺されてしまうのだから。

Dan the Greeter