ほぼ二年ぶりにMatzにっきが更新されたので何事かと思いきや…

Matzにっき(2013-06-12)
「ちょっと待った!小中学校でのプログラミング教育」
そこで、若いプログラマを育てるために、小学校や中学校での情報処理の教育やプログラミング教育に力を入れようという動きもあるようです。しかし、自分自身のプログラマとしての経験から考えると、これにはなかなか困難がつきまとうように思えます。

おっしゃる通り。

しかしそうおっしゃるRubyのパパ自身もまた、一つの罠にはまっていらっしゃる。

それが、ここ。

Matzにっき(2013-06-12)
第二の課題は「どのように評価するか」ということです。学校の授業であるということは、なんらかの評価をする必要があるわけですが、これがまた困難です。

「学校でやること」だから、「評価する必要がある」。

なんで?

たとえば校庭の遊具の使い方とか、採点するどころかわざわざ教えたりしませんよね?

その学校に通うにしても、五体不満足でもないたいていの生徒は歩いて通うわけですが、どうやって歩くなんて、誰も教えてないわけです。学校どころか親も。

実は我々が持っている技能のほとんどは、そういうものなんですよ。採点するどころかどうやって教えればいいのか見当もつかないのに、いつの魔に出来るようになっていて、しかも出来るのが当然だという。プログラミングなんて、そういったことに比べればずっと教えやすいし採点しやすい部類でしょう。

かくいう私も、「学校でやることだから評価する必要がある」の罠にずっぽりはまっています。私の娘は私立の中高一貫校に通っているのですが、採点できる教科の成績は芳しいとはとても言えません。学費を払っている親としては「学費を無駄にするな」って苦言を呈してしまうのですが、それでは本当に何も学んでないかというとそんなことはない。彼女の家にどっさりある本に飽き足らず、ない本まで学校の図書館で借りて読んでますし、感想を聞くとそのまま本blogの書評欄に書きたくなるような感想が返ってきます。親バカを差し引いても彼女の言語力は「いっちょまえ」で、そのおかげで親の説教も「素直にきいてもらえない」おかげで毎朝毎晩親(特に母親)もてんてこ舞い、しかし採点対象の国語はいつも赤点再追試。口癖は「わけがわからないよ」。

でも、娑婆に出てしまえばいやでも気が付いてしまう。

学校で教えていることは、「学ぶべきこと」ではなくて「教え方がわかっている」、もう少し正確にいうと「教え方がわかっていると大人が思い込んでいる」ことに過ぎないのだ、と。最低賃金なマックジョブでさえ、そこで役立つ技能というのは、歩行の仕方から挨拶にいたるまで、「いつの魔に出来るようになっていた」ことばかりで「教わったおかげで出来るようになったこと」というのはセットでついてくるポテトどころかそれにおまけについてくるケチャップほどにもない。釣り銭の勘定?そんなのキャッシュレジスターがやってくれますよね?

そしてそのキャッシュレジスターが仕事をしてくれるのは、プログラマーのおかげ。

そうなんです。学校を役立たずにしているのは、我々プログラマーなんですよ。

教えられることは、プログラムできる。

プログラムできることは、機械にやらせられる。

そして一旦そうなってしまえば、もはやどんな教育を受けた人間も、機械にはかなわない。

教えられるようになった時点で、勝負ありなんですよ。採点できるようになった時点で詰んでるんですよ。娑婆における本番の相手は、人類最強か機械かどっちかなんですから。

TRICK2013の受賞者が審査員ばっかりという時点でいい加減気づくべきじゃないですか?

「勝てるようになる」を目標にした時点で、教育というのは負けだ、と。

コンピュータが仕事を奪う」 P.218
医者も教育者も研究者も、商品開発者も記者も編集者もセールスマンも、耳を澄ます。耳を澄まして、じっと見る。そして起こっていることの意味を考える。それ以外にコンピュータに勝つ方法はないのです。

もしかして、電脳時代における教育の最大の問題は、いったん電脳化されたことに人間が勝つのは不可能であるにも関わらず、勝負を強いてしまうことにあるのかも知れません。そして「どうしてこうなった」かを考えると、教育を設計している人々が「できる」人々だということに思い当たります。彼らはまだそれらが電脳化されていない時代を覚えていますし、勝負に勝った醍醐味を忘れられない人々でもあります。だから「勝つ方法」を「教えよう」とする。

しかし、そんな彼ら自身、教えられたからできるようになったんじゃないんです。勝手に学んだからできるようになったんです。なのに「教える」だなんて、それこそ自己否定もいいところじゃないですか。

我々はそこを「学校」と呼んでいます。「教習所」ではなくて。このことに私は一抹の救いを感じるのです。結局のところ「教える」は「学ぶ」にかなわないのですから。電脳に「教える」ことはできても、電脳に「学ぶ」ことはできないのですから。

「教える」を全否定しているのではありませんよ。いくら「学ぶ」にかなわないとはいっても「教わって」「出来るようになって」「役に立つ」ことは少なくないのですし。しかしそれは「勝手に学ぶ」場や時間を減らしてまでやるべきことではないはずです。

コンピューター?遊具でいいじゃないですか。ジャングルジムや図書室と同じで。ただそこに置いておいて、勝手に使わせればいい。水泳プールの監視員や図書室の司書のように、崖から子供が転がり落ちそうになったら、さっと飛び出してつかまえる要員は必要でしょうが、それだって本当に崖から落ちそうになるぎりぎりまで待った方がいい。使わせる電脳もセキュリティアップデートだけで結構。コンテントフィルターとかは余計なおせっかい。「新世界より」を読ませたら長女はすっかり貴志祐介のファンになったみたいで、私が持っていない分を学校の図書館で借りて来るのですが、セックスも暴力も山盛りの貴志祐介作品を平気で貸すのにlivedoor blogは駄目だとかなんの冗談ですか。

Matzにっき(2013-06-12)
であるならば、少しでもたくさんに人にプログラミングに触れる機会を与え、そしてそれに興味を持てた人、才能の片鱗を見せた人にはより豊かな機会を与えるようなプロジェクトを総合的に設計することで、未来のプログラマを「発掘」できるのかもしれません。そして、そのような才能あふれる人たちに適切な待遇を与えることが、このIT社会の競争力を強める最大の方策なのかもしれません。

だから「総合的に設計する」とか、出来もしないことをいうのはよしましょうよ。総合的に設計された電脳言語が普及した試しがありますか?しかしRubyのパパをして「なにかお膳立てしてらなければならない」と思い込ませるとは。「やらなきゃ」の呪縛の強さに戦慄します。

なにをすべきかではなく、なにをすべきではないか。

それこそが、自らの体験に呪われて汚れちまった我々大人の課題ではありますまいか。

Dan the Father of Two