出版社より献本御礼。

なんという天啓か。

これがリリースされた時点で、手元にとどくとは。

そして改めて読んでみて、いかに自分が若造だったか思い知らされた。

作品世界の現実をそのまま受け止めるのではなく、その中の見たい現実だけ見ていたという意味で。

本作「すばらしい新世界」は、「1984年」とあわせてディストピア小説の双璧として紹介されることが多いと思う。日本の読者であれば、むしろ「ハーモニー」や「新世界より」よりの「プロトタイプ世界」として知られているかも知れない。原著"Brave New World"は、すでに全章Webで読めるようになっている。私が10代の終わりに読んだ--つもりになっていた--のはこの英語版の方。

すばらしい新世界 - 世界観 - Wikipedia
西暦2004年に「九年戦争」と呼ばれる最終戦争が勃発し、終結後、全世界から暴力をなくすために安定至上主義の世界が形成された。その過程で文化人は絶滅し、西暦に代わって自動車王フォードに因んだ「フォード紀元」が採用されている。それ以前の歴史は抹殺され総統と呼ばれる10人の統治者によって支配されている。
人間は受精卵の段階から培養ビンの中で「製造」され「選別」され、階級ごとに体格も知能も決定される。ビンから出た(生まれた)後も、睡眠時教育で自らの「階級」と「環境」に全く疑問を持たないように教え込まれ、人々は生活に完全に満足している。不快な気分になったときは「ソーマ」と呼ばれる薬で「楽しい気分」になる。人々は激情に駆られることなく常に安定した精神状態であるため、社会は完全に安定している。ビンから出てくるので、家族はなく、結婚は否定されてフリーセックスが推奨され、つねに人々は一緒に過ごして孤独を感じることはない。隠し事もなく、嫉妬もなく、だれもが他のみんなのために働いている。一見したところではまさに楽園であり、「すばらしい世界」である。

当時の私にとって、同書は他のSFを知るための「課題図書」であり、読む青汁のようなものだった。避けては通れないけど、鼻をつまんで一息に飲み干したい代物。唯一感情移入できた、野蛮人のジョンJohn the Savageの非業の死とともに物語が完了した時には、世界にとってはハッピーエンドではなくとも主人公(の一人)にとってはハッピーエンドとして飲み干した。

しかし、今回私が誰よりも感情移入していたのは、あろうことか、新世界の守護者、総統ムスタファ・モンドだった。マルクス、ヘルムホルツ、そしてサヴェッジの「三人の怒れる若者」からすれば彼はラスボスであり、若者だった私にもそうとしか感じられなかったのだが、しかし彼もかつては階級と環境に全く疑問を抱かない純粋培養の無菌エリートどころか、そんなすばらしい新世界人に「家畜の安寧、虚偽の反映、死せる餓狼の自由を!」と唾棄せんばかりのはねっかえりだったのだ。

本書のキモは、そんな勇猛braveだった彼が、いかに若気の至りを克服し、迸る暑いパトスを情け深さbenevolenceへと昇華したかを三人に解きつつもあえて引き止めない慈父ぶりが発揮される16章と17章にある。

「もちろん、老いて醜くなり無力になる権利、梅毒や癌になる権利、食べ物がなくなって飢える権利、シラミにたかられる権利、明日をも知れぬ耐えざる不安の中で生きる権利。腸チフスになる権利、あらゆる種類の筆舌に尽くし難い苦痛にさいなまれる権利もだね」
 長い沈黙が流れた。
「僕はそういうものを全部要求します」ようやくジョンはそう言った。

ムスタファ・モンドの最終回答、「まあ、ご自由に」は、原文ではこうである。

You're welcome

本作の世界では、愚行権もまた尊重されているのだ。

訳者がこういうのもむべなるかな。

ジョージ・オーウェルの「1984年」の世界と、オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」の世界--この二つの反理想郷ディストピアのどちらかで行かなければならないとしたら、ほぼ全員が後者を選ぶのではないだろうか。

そして現実世界は、「西暦AD1984年」よりは「フォード歴AF632年」の方、つまり本作の世界により近いと感じる。

本作上梓の後に起った第二次世界大戦冷戦のおかげで、アルファからイプシロンに至る出生カーストこそ人類のタブーというラフ・コンセンサスとして成立したものの…

添え状より
  • 遺伝子による人間の工場生産 -- クローン技術、出生前診断、少子化問題
  • 快楽薬ソーマの配給 -- うつ病の拡大と治療薬プロザックの問題
  • フリーセックスの奨励 -- 結婚の廃止、家族の解体化によって、全員が「リア充」に!
  • 知的格差を用いた階級化 -- 経済格差と知的格差の相関、下流食い
  • 触感映画、芳香オルガン -- よりリアルになっていくヴァーチャルリアリティ
  • 文学や自然鑑賞の衰退 -- 工業化社会では消費を生まない活動は意味がない

という具合に、現実はますますすばらしくbraveになっていくようだ。特に我ながら「なんでここを見落とすよ」と紅顔しきりなのが、最後の「工業化社会では消費を生まない活動は意味がない」。一つの受精卵から何ダースも量産されるデルタやイプシロンたちも、貴重な消費者なのだ。

「ところが産業文明は禁欲しないことで初めて可能になるわけでね。健康と懐具合が許すかぎりぎりぎりまで欲望充足を追求するべきだ。そうしなければ車輪は回転をとめてしまう」

ここ、完全にスルーしてましたよ若かりし頃の私は。

Business Media 誠:小飼弾×松井博、どこへ行く? 帝国化していく企業(1):アップルやマクドナルドは、本当に“悪の帝国”なのか? (3/5)
「お前にiPhoneあげるからオレたちのことは黙って見ていろ」と言えば、たいていの人は黙るんじゃないかな。企業が出す最強のアメは彼らが出す製品そのものですよね。

本書を上梓した時のハクスリー、38歳。不惑を前にしてムスタファをものにしたのはすごい。

しかし20代にさしかかった私がここをスルーしたのは、若気の至りばかりではなかったと思う。冷戦はまだおわってなかったんだから。

本作の世界は、どうも統一されているようだ。10人の統治者たちはそれぞれ自分の担当地区を統治しているだけで、互いに争っている形跡は見られない。世界がオセアニア、ユーラシア、イースタシアの三つに分かれ、三つどもえに分かれているが故に戦争という名の共振状態で安定している「1984年」との違いがここにある。出生のありかたこそ本作と通底するとはいえ、「敵に負け滅ぼされない」という点で最適化しているという点において、人類銀河同盟というのは1984年的だし、「自由意志こそが全ての苦痛の母」であるという達観において、ハーモニーは本作と1984年の「いいとこ取り」だとも言える。いずれにせよ、人類がいくつかに分かれて互いをどつき合う状態という状態に当時の私は慣れっこで、それ以外の世界というのはなかなか実感を伴わなかったのだ。

そして21世紀。冷戦は終わったけど、それはある意味もっと激しい戦いの幕開けだった。「テロとの戦い」?ないとは言わないけれど、本作の18章のように、物語storyにとっては重要でも歴史historyにとっては虫垂のようなもの。今の戦いの主役、それこそが松井博さんとの対談の主題でもある、企業帝国どおしの戦いだ。

本作の世界では、科学技術でさえ共同性community同一性identity安定性stabilityという三つの柱を危うくすると見なされれば後回しにするだけの余裕があった。しかし本当の世界はどうだろう?本作において神を置き換えたフォードの沿革を見ればいやでもわかる。ヒトは昨日と同じ触感映画や芳香オルガンには満足できないのだ。T型フォードに我々の祖父母が満足できなかったように。ソーマですら、改善を求められるのではないか。

ある日この奇跡のりんご男が壇上に上がってこうのたまうわけだ。"A Feely. A scent organ. and Soma… are you getting it? These are not three separate devices"

iSoma?そうなのかも知れない。本作の世界の住人が、エプシロンからアルファにいたるまで同じソーマが与えられるように、アメリカ人だろうがアフリカ人だろうがアジア人だろうがiPhoneはiPhone。用途以上に社会階層ごとに差別化されたクルマと並べてみると、しびれるほどの平等フラットさではないか。

かくして、主人であるはずのアルファは下僕であるはずのイプシロンたちの奴隷となる。彼らはずっとやりがいのある仕事やずっと広い住まいを手に入れられるだろうけど、しかし仕事開けのソーマに、彼我の違いはまるでない…

「明日よりよい今日」への飽くなきbrave願望…

希望を持つかぎり、救われないというわけだ。

ディストピアというのは、悪い世界のことではない。

それ以上直すべき悪いところが、なくなってしまった世界なのだ。

その意味において、「1984年」や「ハーモニー」の世界はより洗練されていると言える。希望そのものを不要にしているという一点において。

しかし、絶望する権利を認めてもなお、ディストピアは成立する。

本作のすごさが、そこにある。

本物の世界に救いがあるとしたら、そこは我々が思っているよりずっと広く、そしてそこには希望そのものを不要にするがごとき「コペルニクス的展開」を持ち出さずとも、ただ淡々と地道によくするだけの余地がまだまだたくさん残っていることにあるだろう。一番売れる電話がiPhoneであるこの国にも、中世的な刑事司法や労働慣行がまかり通っていたりするし、それをわらう国々の乳児死亡率がこの国より高かったりもする。今の段階で「この世はユートピアという名のディストピアか」と諦観するのは、それこそ Shut up and do what you have to do というものではないか。

本作の上梓は、1932年。

それから80年を経て、少なくともこれだけはわかった。

我々はモデルT程度では満足できない生き物なのだ、と。

もっと上をめざそう。

どこまで行けるかは、行ってみるまでわからないのだし。

Dan the Brave Old Blogger