こんな気持ちは、itojunの訃報に接して以来か。

本記事執筆時点おいて、ご遺族や勤務先などによる公式発表は見当たらない。報道機関による取材にもとづいた報告も。

だからこの訃報も、SNSで時折見かける有名人のニセ訃報の類いだと信じたかった。

しかし複数の方に情報そのもののみならずその伝達経路まで示されては、目を背けられない。

彼はもうこの世の人ではないということ、から。

無邪気な人だった。

いや、邪気がないというより、邪気が入る隙がない人だった。邪気をおいとく心の余地があれば、その分躊躇なく開発に振り向けてしまう、そんな人。

天才には、二通りある。

広い才能と、深い才能。

場を拡げる人と、場を高める人。

itojunは広くて、金子勇は深かった。

前者は、門外漢にもわかりやすい。どうやって世界を広げていくのかは理解出来なくとも、世界が広がっていくのは見えるから。itojunにとって、コードとは世界を拡げるための道具で、彼の目標もまた世界を拡げることにあった。かくしてIPの世界は、2128-32 = 79,228,162,514,264,337,593,543,950,336倍にひろがった。未だそこへの移住がすすんでいるとは言えないけれど。

後者は、なかなか理解されづらい。どころか理解が半端なうちは、感嘆の前に恐怖が来る。重力井戸の底の住人たる我々は、水平方向の差より上下方向の差に敏感なのだ。広場恐怖症agoraphobiaでないのは普通であるが、高所恐怖症acrophobiaでないのは普通ではない。高所恐怖症は治療すべきものではなく、必要に応じてやむなく経験を積んで克服すべきもので、慣れることはできてもなくすことはできないのではないか。

ところが彼ときたら、高低差に対する恐怖というものを、はじめから持ち合わせていなかったようなのである。どれほど深い坑にも平気で降りて行くし、どれほど高いはしごでも躊躇なく昇って行く。まるで彼だけは重力から免除されているかのように…

彼にこんなことを話したことがある。高裁判決と最高裁判決の間ぐらいだろうか。

「刃物で怪我をしても、悪いのはあくまで刃物を使った人であって鍛冶ではないのは常識でもあるし法律でもある。でもそれは刃物の普及がゆっくりで、人々も長い歴史を通して徐々に慣れたことが一番の理由だし、例えば刃物が簡単に折れて、折れて飛んだ刃が誰かを傷つけたら鍛冶とて社会的制裁を免れない。より強力で、より複雑で、より急速に普及した道具ほど、製造者責任は問われやすくなる。今日日のシートベルト無装備の乗用車がないように。無罪判決は正しいけど、正しい以上に、まだ「被害者」が少なく「被害」が小さかったから正しい判決を出す余裕があったともいえる。被害が閾値を超えたら、社会が「正しさ」に留意する余裕も吹っ飛ぶ。9.11のように」

彼は、こんな風に答えた。

「だからきちんとデバッグしたかった」

彼にとって、自ら造った道具の問題は、自らそれを改良することによって解決する以外の答えはありえないのだ。

彼にとっての解決とはベタなものであり、メタなものではないのだ。

だからこそ無罪判決を勝ち取れたともいえる。なまじ「かっとなってWinnyを出した。今は反省している」かのごとくの当局にとっての模範解答であったのであれば、一審判決を呑んでしまったはずだ。彼が最後まで戦い勝利したのは、この国の全ての深い才能にとって慶賀すべき勝利ではあった一方、彼にしかできない立体機動を自ら封じることでもあった。

彼自身が、刃だった。

それも国宝級の業物。

あの頃に社会の風雨から彼を護る鞘がなかったのが悔やまれる。

しかしあれほどの仕打ちをうけてなお、彼はさびなかったし刃こぼれしなかった。

ほんとに首の皮一枚ではあるけれど、この国は彼が生きて行く余地を残した。そうである以上、不当な起訴が彼の命を縮めたがごとくの恨み言はやめておきたい。彼にふさわしいのは昨日ではなく明日であるはずだったのだし。

もっと深く。もっと高く。

彼の真価が、今度こそ存分に発揮されるはずのその時に。

金のごとく命が譲渡可能なものであったらよかったのに。

金はカンパ出来るのに、なんで命はカンパできないのか。

嗚呼。

Dan the Mortal