以下より記事を転載します。

同様の論考は、当該記事のみならず〈「中卒」でもわかる科学入門」〉でもしているのですが、何度も論考すべき課題でもありますし、都知事選挙の争点の一つともなっているので。

もちろんそれは数ある争点の一つに過ぎず、それが最優先であるという意見には私は与しません。が、「それはそもそも国政で扱うべき問題であって、都政とは関係ない」という意見にも与しません。今の日本の原子力行政の迷走の一旦は、「国に一任」という姿勢にも一員があったと考えるからです。「国を信じて任せていたらこれだよ」という感想は、推進、反対どちらの側からも聞こえてきますし。

ましてや、今国政を司っている人々は、「李下に冠を正すのがモットーです」といわんがばかり。「おまえは本当は李を盗もうとしてるんじゃね」というツッコミをしておかないと、本当にそうしかねない危うさ満載です。

李が何を意味しているのかは、記事でご確認を。

Dan the Taxpayer

Q.日本の原子力に未来はあるか?

一つにまとめるとこうなりますが、「貿易赤字を止めるためにも原発は再稼働させなければならないと考えるのですが弾さんどう思われますか」と「福島第一原発すらまだ予断を許さない状態なのに原発再稼働なんてとんでもないですよね。弾さんどう思われますか」という両極の意見の板挟みになっております。

A. 他国の原発にあって日本の原発にないもの

まずは現況を再確認しておきましょう。下の図をご覧下さい。

これは資源エネルギー庁の「我が国のエネルギー情勢」(PDF)の24ページ目にある図ですが、震災直前の2011年2月には32%だった原発の発電比率が、2年後の2013年2月には2%まで落ち込んでいます。それによる燃料費増大は3.2兆円。一機5000億円とやや高めに見積もっても、原発が6機、福島第一原発がまるまる一つ作れそうな金額です。

しかし経常収支を見ると、それにも関わらず日本は未だ黒字。世界一の海外資産が貿易赤字分以上稼いでいるわけです。少なくとも経済面から見れば、「コストは上がったけど払えぬほどではない」というのが今の日本の事情。拙著「中卒でもわかる科学入門」では、ゆえに「原発再稼働は趣味の問題」と言っていますが、これは世界的には非常に恵まれた立場で、たとえばチェルノブイリ原発を抱えるウクライナにはそれだけの余裕はありません。ロシアからパイプラインでずっと安い天然ガスを買えるにも関わらず、むしろそれゆえソ連崩壊後は経済面のみならず安全保障面でも原発に頼らざるを得ないのが実情のようです。

日本にあって他国にないもの、それは燃料を買うだけの金ということになります。わずか2年で32%が2%になり、にも関わらず計画停電も避けられた日本の電力供給システムは、そうであるが故に「原発は必要である」という設問に対する反証となっています。原発再稼働を望む供給側にとっては不都合が真実と言えるでしょう。

A. 原子炉にしかできないこと

(原発は)ものすごい技術なのに、熱を出してそれで水を沸かし、タービンを回してるだけ。そしてその熱を水で冷やし続けなければならない稚拙な原理

加藤登紀子も対談で指摘しているとおり、この点においては原子力発電というのは「稚拙な原理」であることは否定しがたく、しかも「火を落としても」炉の冷却を止められないという意味においてその稚拙さは火力にも劣ると言われると、返す言葉が見つかりません。

それでは原子炉にしか出来ないことは存在しないのでしょうか?

実は一つ存在します。

ここで私は、「原発」と言わずに「原子炉」と言いました。察しのよい方は、これだけで答えにたどりついたはずです。そう。原子力潜水艦。動力源にできるほど大量の水を、酸素なしで沸かせるのは現時点でこれだけです。原潜の登場後は通常動力型潜水艦と呼ばれるようになった潜水艦と原子力潜水艦は、ここで決定的に異なります。原潜以前の潜水艦は、「いざという時にだけ潜る船」でしたが、原潜によって「出入港時を除いて常に潜っている船」が実現可能となったのです。

この状況はUSSノーチラスから58年を経た今もあまり変わっていません。「非原潜」はディーゼルエンジンでバッテリーに充電するか、酸素をあらかじめ蓄えておくしかなく、長くても数日しか潜水し続けられないのに対し、米海軍の最新型であるヴァージニア級は、艦の一生である30年間燃料無補給で潜水航行できます。もちろん乗組員がそこまで保たないので実際には3ヶ月ほどで出入港を繰り返すのですが、息継ぎが必要ないというこの特長が他をもって代え難いことは、素人にもよくわかります。

この原潜を、米海軍は70隻ほど運用しています。原子力空母もあわせれば、80隻。これは米国にある発電用原子炉104基に匹敵します。これが何を意味するか?

マンガではない、本物の「沈黙の艦隊」を維持続けるかぎり、米国において原子力に関わる人材確保は問題にならないということです。たとえ原子力工学を教える大学がなくなってしまったとしても、アナポリス=海軍士官学校があるわけです。そこがどれほどの人材の宝庫かは、大統領を輩出していることからも伺えます。ジミー・カーターの上司は、原潜の父、ハイマン・リッコーヴァーその人でした。

その人材確保の心配のない米国ですら、スリーマイル島原発事故以降、原子力発電所は新設されていません。そして30年の空白を経て、原発建設を再開しようとした矢先に、福島第一原発の事故があり、シェールガス革命がはじまりました。

倫理的な是非はさておき、原潜という「他をもって代え難い」技術を国をあげて維持管理している米国ですらこのありさまなのに、日本において人材確保はおぼつくのでしょうか。内閣府原子力委員会の資料、「原子力人材育成の現状と文部科学省の取組みについて」を見るかぎり、かなり寒い状況と言わざるを得ません。

これまで見た通り、日本にとって原子炉は「かけがえのないもの」でもなく、それゆえ人材確保もままならなくなっているにも関わらず、それでも政府--の一部の人々--が原発を諦めない理由はなんなのでしょうか?

一介の納税者という一人の下衆としては、やはり「いつかは核武装」という夢を、彼らが今も抱いていることに勘ぐらざるを得ないのです。

日本最初の商用原子炉は、黒鉛炉でした。最初に建設された場所の名前からコールダーホール型とも呼ばれるこの炉で、英国は核兵器用のプルトニウムを製造しています。それ以降の軽水炉は、核兵器用のプルトニウム製造には向かないのですが、実は黒鉛炉の他に、核兵器用のプルトニウムを製造するのに向いた炉型があります。

高速増殖炉です。そう。もんじゅ。

これがどれほど難しいかは、最先端を走っていたフランスも諦めてしまったことからも伺えます。原爆も原潜も保有しているフランスすら諦めたこの炉型に日本がこだわりつづけた理由として、最も合理的なのが「核武装の夢」なのです。

実際カーター政権が増殖炉開発をやめたのは、核拡散防止の観点からでした。米国自身はすでに核兵器用のプルトニウム在庫を充分もっている以上、商用炉として輸出も視野に入れざるを得ない増殖炉はある意味「敵に塩どころか核を送るようなもの」になることを、歴代大統領の中で最も原子炉に精通していたであろう大統領が気が付かぬはずがありません。

かつては他にも合理的な理由がありました。開発がはじまった当時、ウラニウムは60年で枯渇すると目されていました。これは石油の40年よりは長くても、石炭の200年よりはずっと短い。燃えない99.3%のウラニウム238が、増殖炉によって燃えるプルトニウム239に転換できれば、資源量は一気に100倍以上になる。これで1万年安心というわけです。

しかしウラニウムは海水からも入手が可能であり、そして太陽光発電や風力発電にはそれ以上の資源量があることが明らかになるにつれ、専門家にすら原子力はそれまでのつなぎと目されるようになりました。がんばって核燃料サイクルを確立する必要はもはやないのです。

そういったことは、もんじゅがナトリウム漏洩事故を起こした1995年ごろには明らかになっていました。にも関わらず2010年に運転を再開し、するやいなや原子炉内中継装置落下事故を起こし、今年の5月に点検漏れ事件による無期限停止が命じられた今もなお計画そのものをやめる気配がないというのは、端から見て何かに取り憑かれているようにしか見えないのです。

現政権は憲法改正を標榜しているようですが、そのこともまた「核武装の夢」実現への一環に私には見えてならないのです。杞憂であればよいのですが…