Open Source の定義とはなんだろうか?
私にとっての定義は、以下だった。
Perl, the first postmodern computer languageImagine, open source is merely a byproduct of our need for family. So, look at all of you out there. You're just a big, dysfunctional family trying to create meaning.[拙訳: オープンソースは家族の必要性から生じた副産物だと想像してみよう。君たちをごらん。なにか意味を見出そうとしている社会不適応者の大家族じゃないの]
その家族--だと思い込んでいたなにか--に、それも「家族」の窓口たるJPAの理事に「話はいらないから、金(時計)を出せ」と言われたら、どうか。
たとえ冗談でも、笑って赦さなければならないのだろうか。
恐縮ながら、私の心はポケットの深さほどには広くない。
まだこの「家族」がただ互いに身を寄せ合っているだけの、社会的には「家族」どころか外からは「烏合の衆」としかみなせなかった頃、いや、JPAが発足してからなおもしばらくは、私はずいぶんと「家計」と「家事」の面倒を見てきた。「ゲストスピーカーが泊まるところが足りない」と言われれば、本当かつ本来の家族である妻子をウィークリーマンションに退避させてでも自宅を提供し、「講師が来れなくなった」と言われれば代役を引き受け(そんな時代もあったのよ)、"Perl"という「家名」を勝手に商標登録されたのに法的手段をとるための金がないといわれればそれを用立てし…
そういったこともあってか、「家の外」からは私が一家--というか、日本における「分家」--代表だと見られてきたようだ。実際はただの「家事手伝い」で、「家族会議」に相当するであろうJPAの理事でも何でもない、後ろ盾する組織も何にもない、単なる数寄者で小金持ちの世話焼きオヤジだというのに。
それから幾星霜。YAPC::Asiaもずいぶん立派になった。拙宅に雑魚寝していたゲストスピーカーたちもきちんとホテルに宿泊するようになり、会場外で入手していた昼食もスポンサーから山ほど支給されるようになり、かつて私がJPAに用立てした程度の費用はベストスピーカー賞の商品分だけで費やせるようになった。組織化の賜物である。組織の意義の一つは、個人を過度な負荷から解放することにある。JPAはその役割を果たしてくれた。妻子も私自身もそれでずいぶんと楽になった。その点は大いに感謝している。
その一方、今ではJPAとボランティアスタッフが片付けてくれている諸々の手間と費用の少なからぬ部分を引き受けてきた--と少なくとも私はそう認識している--私の妻子と私に対する謝辞は、個々の関係者のものは数あれど、JPA公式のものは探したのだけど見つけることはできなかった。
その理由が、やっと理解できた。
その程度のことは、彼らにとって「有り難い」ものではなく「有り触れた」ものだ、と。
「今までそれくらい出している」ほど有り触れてるのだから「最後ならど〜んとだしてやる」のも当然だ、と。とどめに"w"締め。「ラクダの背を折った藁」ならぬ「オレの心を折った"w"」。
"a big, dysfunctional family trying to create meaning." 家族にとっての私のmeaningがそのカネしかないというのであれば、私自身のmeaningって残っているのだろうか?ヒトと違って、カネはキレたりスネたりすることはない。ご機嫌を取る必要も気を遣う必要もない。
「家族にとっておまえのできるベストは、金をおいて逝くことではないのか」という設問に、返す言葉が見つからない。今の私は真っ二つに折れている。「家族」に対して怒りがおさまらぬ私と、それでも「家族」の幸せを願わずにはいられない私とに。
Dan the Disowned
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