君子は豹変す ⇔ 豹変しなけりゃ君子じゃない。
このたび私、小飼弾は、VALUに上場したと同時に株式会社VALUのリードエンジニアに就任したことをお知らせします。
業務連絡
とは言いましても、今まで携わってきた諸々の業務を全て投げ打って同社のために24時間戦う、というわけではございません。副業は禁止どころか推奨されているぐらいですし、不定期更新の本blogも、ほぼ毎日更新のTwitterも(@dankogai)も、月二回のニコ生( 404ch not found)もこれまで通り続きますし、Software Designや週刊新潮などの雑誌連載も続けていく所存です。すでにおつきあいのある各位におかれましては、改めて今後ともよろしくお願い申し上げる次第です。
とはいえ以後はVALUの業務が第一優先になります。それは競合条件が生じた際にはVALUが優先されることを意味します。それ以外の仕事はあくまでもVALUの業務に差し支えのない限りにおいてということになりますし、VALUの業務を通じて知り得た情報は公開可能なものを除いて明かせないことは言うまでもありません。
以上何卒ご理解いただけると幸甚です。
にしてもなぜVALUへ?
VALUに関しては、つい一ヶ月前にも山田真哉先生との対談でも触れています。懐疑的かつ批判的に。
だからこそ、それがうまく行く可能性が少しでもあるのなら、その可能性を少しでも高める一助になれたらという思いも抱いていたのです。
そんな矢先に、ファウンダーの小川晃平さんにお声がけ頂きました。
こういうのを、魚心あれば水心というのでしょうか。
VALUのVALUE
VALUとは何か?今北産業すれば、
- 市場という仕組みの脱権威化を
- Bitcoinという脱権威的通貨を通して進める
ための場にして仕組みであるということになります。
市場はそこにある銘柄を誰でも売り買いできるという意味では民主的ですが、何を銘柄にするかは取引所という権威の審査に依っています。その審査のコストは下がってきたとはいえ、今日登記した会社を明日上場させるというのは程遠いですし、ましてや個人を上場させるなんてありえない。
しかし改めて見てみると、市場自体が価格形成という名の審査能力を備えています。良いものは値上がりし、悪いものは値下がりする。良し悪しという定性的な判断にとどまらず、プライスという形で定量的にどれだけ良いか悪いが示されるという点は明らかに権威による審査より優れています。それ以上に優れているのは自律性。個々の参加者が利己的にふるまえばふるまうほど公正になるというのは、公正のために滅私が要件となる権威の対局にあります。
Bitcoinにも同様の自律性があります。Bitcoinを増やす唯一の方法は、Bitcoinを成すブロックチェーンを検証すること。マイナーたちが利己的にマイニングに勤しめば勤しむほど、Bitcoinは偽造できなくなる。実に見事です。
自律性。権威というシステムに決定的に欠けているのがそれなのです。権威は公正をもたらすために存在するはずなのに、その獲得と維持が常に自己目的化してしまう。完璧な無私というのが現状ありえぬ以上、システムは権威者の恣意が混入してしまうことを防げない。結局どうしているかというと、権威者の任期を有限にして壊れる前に取り変えたり、定期的に外部から査察したりと、「外から」手出しをせざるをえない。そして多くの場合、最終的に手を出すのは当局というこれまた権威…
個性を尊重するということは、その個人の利己性を尊重することを意味します。それを権威というシステムでやろうとするとシステム管理者は無私でなければならないという矛盾は不可避です。
私が望んでいるのは、個々が好き勝手に振る舞うことが全体の調和をもたらすシステム。虫のいい話かもしれませんが、無私な生贄を常に要求するシステムほどではないと考えています。
そんな世界を標榜している人々に手を貸せと言われて無視できるほど、私は無私にはなれないのです。
ASCIIとUnicodeの間には
もちろん現状のVALUとVALUが目指す世界との間には大いなるギャップが横たわっています。脱権威とはいっても、現状VALU自体が取引所という権威でもありますし、BitcoinはSegwit前夜ですし、乗り越えるべき山や谷がいくつあるかすらわかりません。仮にその世界が来ても、Napsterのようにその頃には自身は屍となっている公算は贔屓目に見ても低くないでしょう。
しかし1969年、人類が月に初めて降り立った直後に生まれた一技術者として私は知っています。いきなりステーキはありえてもいきなりアポロはありえない。スプートニクに先を越され、ボストークに再び先を越されながらも、エクスプローラーを打ち上げ、マーキュリーを打ち上げ、ジェミニを打ち上げた末にやっと辿り着いたことを。
アポロ計画は私にとっては歴史ですが、文字コードの変遷は私の個人史の一部でもあります。ASCIIとUnicodeの間には、ISO-2022-JPやShift_JISやEUC-JPをはじめ数多くの文字コードが存在していました(というか実は未だに存在しています)。Unicodeのおかげで、電話どころか腕時計でもalphabetはもちろんのこと、カタカナ、ひらがな、漢字どころか😄も入ったテキストを読み書きできる世になったのですが、そうなったのはここわずか10年ちょっとのことで、その前はShift JISだのEUC-JPだのといった様々な文字コードが乱立していました。それらの文字コードは無駄だったのでしょうか?
もし最初からUnicodeしかなかったら、私がEncodeを無職無給でメンテナンスすることもなかったことだけは確かです。
幸せの瞬間
拙著”「中卒」でもわかる科学入門”で、私はこう言いました。
およそどんな人でも、幸せな瞬間というのは次の二つしかないのかもしれません。
- できなかったことができるようになった瞬間
- わからなかったことがわかるようになった瞬間
VALUはこの二つの瞬間をいくつももたらしてくれるはずです。実際すでにして私はslackをリフレッシュするたびにそういう瞬間を味わっているのですが、大きな目標として、
- 好き勝手に生きたら世の中が良くなるようになった瞬間
- 価値(value)とは一体なんなのかが本当にわかるようになった瞬間
に立ち会えることを希望して本entryの〆とさせていただきます。願わくば私のわがままがこれを読んだあなたの幸せに繋がりますように。
Dan the Selfish Meme
こがいだんさんとこの3人で会わせてください。